【アート】サンシャワー展に見た、日本の「不在」
——東南アジアの若手アーティストは、日本の同世代と比べて、内なるモチベーションが強いということでしょうか。
そうですね。日本でも2011年の震災以降は社会に関わるアートが注目されるようになりましたが、やはり「国家とは何か」「民主主義とは何か」といったことを問わざるを得なかった東南アジアのアーティストからは、よりリアルな必然性や緊張感を感じる作品が多いです。
以上は下記リンク内のキュレーターのインタビューからの抜粋。
サンシャワー展は、現代アジア美術の現在進行形の作品を、森美術館と国立新美術館の2箇所を横断して一堂に介した大規模展示。その高い志と熱意は十分に伝わる展示だったが、見進めるうちに小さな違和感が芽生えはじめていた。
なぜここには、
日本の作品がないのだろう?
続きを読む回遊型演劇(やりたい)宣言
回遊型演劇は面白い。とても面白い。
Sleep no moreより。観客は全員仮面を被って鑑賞し、亡霊として物語に「参加」するという重層的演劇体験
だからやりたい。やりたいのです。
…でも、「そもそも回遊型演劇って何よ?」って感じですよね?
続きを読む
【映画】マンチェスター・バイ・ザ・シー
曇り空の港町の風景。
志が高いのか低いのか計りかねる、灰色の景色。
映像のトーンもこの時点では決して上質とはいえない。
そんな風に映画ははじまる。
景色は寒々しいマンチェスター港から雪景色のボストンへ。
これはアメリカのマンチェスターの話。
そしてボストンで雪かきをする陰気な男がスクリーンに現れる。
男の名はリーという。
観終わって、とても余韻が長く尾をひく映画だった。
なぜだろう。
地味な、とても地味な映画だ。
ドラマはある。強くあるのだけど、ことごとく沸点となる描写を回避している。
全てが日常の、灰色の街の景色の中に落とし込まれている。
主人公のリーは訳あって故郷を離れ、ボストンでアパートの便利屋をやっている。人望厚く皆に愛された兄が心不全で亡くなり、遺された高校生の甥・パトリックの面倒を見るため一時休職して故郷に戻るリー。なぜリーは故郷を離れたのか。パトリックの面倒は誰が見るのか。兄の遺言は。ゆっくりとストーリーは進んでいく。
リーはあまりにも不器用で寡黙だ。口も悪い。なぜそうなったかの理由も作中で語られるわけだが、なんであれこんな中年が近所にいたらいい気はしない。実際、リーは職場でのウケも最悪だし、本人もそれを悪びれる様子がない。そんな男が主人公な時点で特にロクなことが起こるはずもないし、実際起きない。どこにでもありそうな中途半端な不幸と中途半端な日常の描写がつぶさに続いていく。
中途半端な不幸、中途半端な日常。
作中で語られる「ある不幸」は中途半端とは言えないエピソードだ。
ただ、この作品の中で流れる時間は常に何かが「うまく行かない」。
いつも余計な何かがそこには起こって、
完全にシリアスな状況にも、完全にハッピーな状況になることもない。
人々はいつだって目の前のそれに対応するのに手一杯だ。
リーは一人残された甥のパトリックの後見人になるという突然の役割を、陰気な独り言を呟きながらもとりあえず全うする。遺産となる船はどうするか。家は。遺産は。一つ一つ道筋をつけていく。これからパトリックの進んでいくだろう道と、進むべき道をとうに失っているリー。二人の境遇がじょじょに重なって見えてくる。
大なり小なり、毎日起きる「余計なこと」。
これがなければ完璧だったのに!なんて日はいくつもある。
でもそれがなくなる日はないし、
完璧みたいな不幸な日にもそれは起こる。
ならば人生ってのは、その「余計なこと」の方にあるのかもしれない。
「余計なこと」の前では私たちは苦笑いすることしかできない。
苦笑いして、やれやれと重い体を持ち上げて今日も歩いていく。
鑑賞後、銀座の街を行く人々を眺める。
みんな生きて、それぞれに苦笑いしている。
結構なことじゃないか。歩いていくとするか。
【舞台】チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』
おそろしい完成度のものを観た。
チェルフィッチュの新作公演。
観たのは「God Bless Baseball」以来だから、約2年ぶりになるだろうか。
僕も過去作の「三月の5日間」で思いっきり衝撃を受けた多くの人間のうちの一人なので、その後もチェルフィッチュの作品にはできる限り足を運ぶようにしていた。
ただ「三月の5日間」が方法論としてあまりにも「出来上がって」いたせいか、その後に続く作品たちにはどこか飛び抜けた印象を感じられずにいた。単に好きすぎて期待を大きく持ちすぎていたからかもしれない。そういうことはよくある。加えてここ最近は極端に席数の少ない変則的な公演が続いていたのでしばらく足が遠のいていたのだけど、今回は久々にチケットを取ることができた。
今回の作品、東京公演は三軒茶屋のシアター・トラムでの上演。
劇場に入ると、舞台上にはすでに照明が当たっていて、そこに並ぶ美術が目に入る。
テーブルと二脚の椅子。その上に水の入ったグラス。
舞台奥にカーテン。風に揺れている。
そして手前には…なんだろう?
小さなドラム缶?のようなもの。
中は空洞で、ときおり内側がふわりと光るのが見える。
その手前でレコードプレイヤーのように回転する円盤状のもの。
その上に石が乗っている。石。なんの変哲もない石。回転。
配置された一つ一つのものは当たり前のものなのに、
舞台上のその光景はすでに何かがおかしい。
気づけば劇場内にはうっすらとノイズ音が流れていて、
ほのかにうごめく美術はそのノイズに共鳴しているようにも見える。
舞台にはまだ誰もいない。
誰もいないが、何かの気配だけがある。ものが生む気配。
チェルフィッチュといえば独特な「しぐさ」の演出が特徴とされるが、ある意味今回はその演出を美術にまで拡張したということかもしれない。そしてその企ては高い精度で成功していたと思う。
作品群を見ると、彼の作品のいくつかがそのまま採用されているようだ。
美術と音の醸す静謐な緊張感の中、冒頭しばらく椅子に座ったまま背中だけを見せ続ける男。まるでどこか宇宙空間を浮遊しているかのように手足を空間に揺らしている。流れるノイズ音との間に規則性があるようでないような、うごめくモノたちと対応するようなしぐさ。人とモノの境目が曖昧になる。
一方で対となる女性の演者のしぐさはそこまで誇張されない。ただ、テーブルをなぞる手、水の入ったグラス越しに歪んで見える赤いマニキュア…舞台上のそんなディテールがはっきり記憶に残るほど、極めて「緻密」だ。
本作のテーマははっきりと「不在」だ。
「不在」をどう受け止めるか。「不在」とどう向き合うか。
「不在と向き合う」とはおかしな話だ。
だってそれはそこにいないのだから。
それでも向き合わなければならないのだとしたら、「不在」の側にそこに現れてもらわなければならない。
本作の美術、音響、演技、セリフ、そのそれぞれによる極めて緻密な「異和」の創出は、全てその「不在をそこに現す」ための儀礼だったかのように思える。それを必要とするものによる切実な、そのためだけの儀礼。それによって「不在」がこちら側に現れたのか、私たちが「不在」の側に引き寄せられたのか、それはわからない。
本作の冒頭で、客席に向かって語られるなんて事のない一言。
"PLEASE OPEN YOUR EYES."
目は開かれたのか、ただ閉じていたことに気づいただけか。
いまこれを書いていてもう一度それを反芻している。