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【演劇】赤堀雅秋『鳥の名前』- 演劇の"映像性"についての覚書

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少し前に観た演劇について、ふと思いついたことがあり書いておく。

 

劇団ザ・シャンプーハット主宰であり、映画方面にも活躍の場を広げる赤堀氏の作・演出作品。不勉強ながら赤堀氏の作品を観たのは初めてだった。

 

端的に言って、面白かった。

描かれているのは日本の地方都市のグズグズしたダメ人間たちの様相、という感じで、それ自体はやや手垢のついたモチーフだ。ただ、自分がそうしたものをあまり好んで観てこなかったこともあってそれ自体が思ったより新鮮に感じられたし、出演した俳優たちの実力や持ち味と、物語のトーンをうまく融けこませることに成功していたと思う。観終わって、しっかりとエンターテインされたという実感があったし、かと言ってその言葉で文学性の低さを揶揄したくなったわけでもない。そこにはちゃんと鑑賞後に残る余韻、風合いがあった(と思う)。

 

それはいいとして、ここで書き留めて置きたいのは、その演出面の話だ。

 

本作の冒頭から15分ほどを観ていて強く感じたのは、「これは強く映像的な作品だな」ということだった。ある「カット」が、舞台のある場所で展開する。と、あるきっかけで場面が切り替わり、別の「カット」が、舞台の別の場所で始まる。と言った図式があり、この切り替わりがセリフのリズムや使用される音楽と強く連動している。非常に「編集的」であると感じたのだ。

 

また、舞台美術としても、空間を上下/左右に概ね4分割し、それぞれを別の場所として扱うようなタイプの演出が行われていた。つまり、観客席側から「投射された平面」のように空間が扱われている。すごく雑に言えば、4分割画面で構成された映像作品のような状態だ。もちろん演劇には演者の肉体が伴う分、舞台上の「ある一部分」に観客の目を釘付けにすることが演出的に可能で、実際に映像を4分割にした時ほど平面俯瞰的にはならないのだが、上述したその他の映像的テンポ感もあいまって、「あ、これこのまま映画にしてもいいやつだな」という印象を強く持った。

 

でもだとしたら、この作品が演劇である必要とはなんだったんだろう?

今回書いておきたかったのはその部分の話だ。

 

本作は非常に映像的だったし、それを本作の優れたポイントして論じることもできそうな気がする。実際に、ありありと想定された街、室内、あぜ道の様子が脳裏に浮かんだ。だが、それは逆に言えば、観客の側に「こういう話の時はこういう感じの映像だよね」という約束事が浸透しているから成立したことなのではないだろうか。

 

すでに書いたように、本作のモチーフは若干手垢のついたとも言えてしまう、非メジャー作品を見慣れた観客には好意的に受け取られやすい世界観のものだった。当然、それらの設定は観客の脳裏に一定の「像」を結びやすい。あえて嫌な言い方をすれば「安易」に。だとしたら、これが全く異なる文化圏で上演された場合はどうだっただろう。そういうことに耐えうる普遍性がこの作品にはあったのだろうか。

 

「閉鎖的な地方都市の空気というもの自体を観客の心理の中に空間として浮かび上がらせることに成功している」・・・というような言い方も、あるいはできるだろう。その観点から見れば本作は申し分なく、実際に成功している。それに加えて、「デビットリンチ的」とよく言われるような怪しさの演出もうまく決まっていた(でもやはりその"うまさ"も映像的な"うまさ"だ)。だが、その「閉鎖的な空間性」に、「そもそも演劇がもっている空間性」はなんらかの形で寄与していただろうか。スズナリの狭さが?劇場自体の古さが?いや、それだけでは何かの言い訳みたいに聞こえる。やはり、本作に必要な「空間性」を 観客に体感させるにあたって、演劇的にできたことはもっとあったんじゃないだろうか。そう思えてならない。

 

赤堀さんは多分、これからも映画方面で仕事をなされるだろうし、多くのよい結果を残されるだろう。でも、だとしても、演劇は別に映像のためのプロトタイプではない。やはり演劇には演劇としての強度を期待したい。そんなことは多くの観客にとってはどうでもいいことかもしれないけど、自分がわざわざシネコンよりも居心地がいいとはお世辞にも言えない芝居小屋に足繁く通う理由はそこにある。赤堀さんの作品にもそうした演劇性が強く反映されていたもの、今後上演されるものでそれが強く出ているものが、あるいはあるのかもしれない。だとしたら、その作品を観てからもう一度本作について考えてみたいと思う。