あれとか、これとか、物語とか

smdhktが考えたこといろいろ

A君のこと

Instagramにアップされていたある写真が目に止まる。

ドイツの古い農具の写真。

 

それを見て、古い友人のことを思い出した。

 

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https://www.instagram.com/p/BWacZEYlEns/?taken-by=nshimu

 

 

 

 

彼のことを、仮にA君とする。

 

A君はいまも現役で活動する現代美術作家だし、

別に名前を伏せる必要もないのだけど、

直接言及するのは何となく気恥ずかしいのと、そうされることがA君自身もあまり好きではないような気がするので、ひとまずそういうことにしておく。

 

A君とは大学が斡旋する深夜勤のバイト先で出会った。

その頃のA君は長いドレッドで、A君にはそれがとても似合っていた。

ドレッドというとレゲエとマリファナが好きなチャラチャラした強面の男、みたいな姿を想像されるかもしれないが、A君の印象はむしろその逆で、色白で細身の長身の彼は、眼鏡の奥にいつも知性と上品さを漂わせているような人物だった。年下の僕にも常に敬語で接するようなA君。だが、それと同時にめちゃくちゃ皮肉屋で口が悪かった。他人が言われたくない弱い部分を一瞬で察してすぐ口にする。苦手な人にとってはありえないぐらい嫌なタイプだと思う。だけど、彼の言葉には不思議と嫌味がなかった。「あなたの言ってることは僕には全くわからないですね」と笑うA君は、そう言いながらその相手のことを遠ざけはせず、ただそこにい続ける。僕はA君の殺傷力の高い口の悪さと、そういう佇まいが好きだった。

 

そのバイト先は主に美術大学の学生に向けて求人を出していた。その頃僕は大学で映像を学んでいて、見よう見まねでショートフィルムみたいなものを撮ったり、そんなことを通じてなんとかものを考えようと四苦八苦していた。大学は違うけどA君も美大生で、バイトの休憩中の雑談で、A君と僕はそれぞれにどんなものが好きかとか、自分がどんな作品を作っているかとか、お互い控えめにポツポツと語り合っていた。

 

その時A君が話してくれたことを、当時の自分がどれだけ理解できていたかというとずいぶん疑わしい。雑談の中でA君は、「そもそもギャラリーという場で作品を展示するということの意味がわからない」というようなことを言っていた。そして口癖のようによく「美しさ」について話していた。

 

ある時、好きな作家の話になって、その時A君はシモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」という本を、彼には珍しくけっこう強くおすすめしてくれたのだけど、その意味と、彼がそれを強く薦めた思いについて少しでも理解できたのは、それからずいぶん時間が立ってからのことだった。

 

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大学を卒業し、その後1年たって僕は映像制作会社に就職した。

 

俗っぽい業界で俗っぽく働くようになった僕は、元々内に秘めていた俗っぽさを存分に開花させ、しんどいながらもそれなりにうまくやっていた。毒されたといえばそうなのだろうが、好んでその毒を齧っていたのだとも思う。一瞬の花火のような仕事の快感と、寝不足の酩酊感と、条理よりも不条理を多く飲み込む時の違和感と。そんなめまぐるしい毎日の中で、気づいたら数年がたっていた。

 

ある日、自宅に綺麗な封筒に入った手紙が届いた。

A君からだった。

 

それはA君の個展の案内だった。

神楽坂にある、著名な建築家が設計した旧邸の一角を改築したようなギャラリーでやるらしい。

 

その案内状は、案内状というよりはそれがすでに展示のイントロダクションになっているようなものだった。それはいうなれば将棋の棋譜のようなもので、手紙を受け取って開封した時には、人はすでにA君の作る世界の中に誘われている。目にした時から実際に会場に足を運ぶまで、僕は彼の一手の真意についてずっと考え続ける羽目になった。

 

それはそれとして、何より僕は久しぶりにA君に会えるのが嬉しくて、個展に足を運んだ。たしか夏だった。神楽坂のギャラリーまでの日差しが随分暑くて、着く頃には汗だくになっていたような覚えがある。ギャラリーの扉を開けるとギャラリーの片隅にA君がいて、僕の訪問を思いのほか喜んでくれているように見えた。

 

A君の作品は、圧倒的だった。

 

A君の作品を言葉で伝えることは今でも難しい。

例えばそこにあるのは古い農具であり、古い木製のベンチだったりする。

それだけといえばそれだけだ。

でも、その説明はほぼ意味をなさない。

 

A君は基本的に、自分の手で何かを制作するタイプの作家ではない。

この世界のどこかでA君が見つけた「何か」を、A君がA君の感覚で手に取り、それに適切な場所を与える。時折、その片隅にA君が書いた言葉が添えられる。

そうした手順で、A君は空間を支配する。

訪問者はその空間にやってきて、まずものを目にする。ものとものとの関係を目にする。傍の言葉を目にする。そしてやがて、それが空間であることに気づく。気づけば、鑑賞者はその中に佇んでいるーー。そういう「作品」だ。

 

その時も含め、その後何度か見ることになるA君の展示は、どれも自分の美術体験の中でもかなり強い印象が残る素晴らしいものだった。当時の僕なりの語彙で、僕が受けたその感銘をその場でA君にも懸命に伝えようとしたけど、そういう時ほど言葉の無力さを感じることはない。家に帰ってからも、僕は妻にそのことを随分熱っぽく語った覚えがある。その空間で感じたその空気は、その時の僕の机をひっくり返し続けているような喧騒の続く毎日の中にあって、唯一静寂が許される場所のように感じられた。静寂に喉を潤わされるような経験はその時が初めてだった。自分がどうしようもなく喉が乾いていたことに、その時初めて気づいたのだ。

 

それからも年に一度、A君は同じ場所で個展を開催した。

 

その度に届く案内状は、年一度だけやりとりする文通のようなもので、永遠に続く急階段を登っているような毎日を過ごす僕にとって、忘れた頃に突然現れる小さな踊り場のように感じられた。その踊り場で僕は立ち止まり、小窓から見える景色を眺め、いま自分がどこにいて、何をしているか、考える。年に一度A君の個展に行くことは、それぐらい僕にとって大切な節目になっていた。

 

それでも当時の僕は、自分を取り巻くその俗っぽい世界の中で、むしろその俗っぽさの中に積極的に何かを見つけようとしていた。A君やA君の作品はその真反対にある別の世界のもので、だからこそ僕はそれに触れることを心から必要としていたのだと思う。

 

*********** 

 

ちょうどその頃、僕はFacebookを使うようになった。

ほとんどの人とはSNSで連絡がつくようになり、僕は全く使わなくなっていた個人携帯を解約して仕事用に使っていたものに一本化した。当時はA君も連絡の為にアカウントを持っていたし、何も不都合はなかった。

 

しかしその後、案の定というかなんというか、A君からFacebookをやめるという連絡が来た。元々携帯を持っていることさえも違和感があるような浮世離れした人なのだから何も不思議ではない。その連絡の中でA君は、「いい場所が見つかったので、これからは個展という形でなく古物商のような形で続けるかもしれない」と言っていた。

 

そうか、じゃあまたそのうちに遊びに行くよ、と伝えて、それきり僕が彼の店に行くことはなかった。何度か思い出しもしたし思い立って行こうとしたこともあったけど、不定期営業だとも聞いていたので、なんとなく思い切ることができなかった。事前に電話をすることがなんとなく無粋に感じられたというのもあったけど、単に僕がものぐさで不義理だっただけだ。そしてまた、あっという間に数年がたってしまった。

思えば、A君に出会ってからもう20年近い月日が経とうとしている。

 

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あの当時、A君に自分が作っていた自主映画に出演してもらったことがあった。

 

A君と並んでモニタを眺める不思議なバイトをしていた頃、僕は卒業制作の自主映画の制作に取り掛かっていて、その中のあるシーンにA君に出演を依頼した。「葬式で雰囲気をぶち壊すようなことを言ってその場を引っ掻き回し、その場を騒然とさせる男」という、厄介な役だ。A君はもちろん役者志望などではな買ったのだけど、彼以外には考えられなかった。というかその役は、A君の佇まいを念頭に置いて書いた役だった。断られることを覚悟してそのことを話したけど、何度かのやりとりのうちに意外なほどすんなりと「いいですよ」と快諾してくれた。

 

撮影のあとアフレコが必要になり、A君の自宅で録音をさせてもらうことになった。

 

当時A君が住んでいたアパートは大きな川の近くにあった。周りに高い建物がなくて、ずいぶん空が広く感じた。A君に招き入れられて部屋に入ると、大きなドーベルマンが中にいた。A君はその犬を「イギー」と呼んだ。「ジョジョとか読むんだ」とその時ちょっと親近感が湧いたけど、それは言わなかった。部屋に据えられた檻の中で時折唸る犬の鳴き声に怯えながら、録り損ねたセリフを拾っていった。

 

西日で赤く染まるその部屋は、普通の6畳二間の和室なのに全く生活感がなく、まるでヨーロッパの古いプロテスタントの教会のような(実際そこにはA君が旅先の教会で見つけたという木製の長椅子が置いてあった)、厳しく研ぎ澄まされた静寂に満たされていた。その部屋の中で、自分の作りたいもの、大事にしたいことについて、自分なりに言葉を尽くして話した。物語やディテールの脇の甘さについて鋭い指摘もされるたびに、新米の自称・監督として冷や汗を流しながら必死に答えた。僕は僕で必死だったのだ。

 

「(僕の名前)君は、優しい人ですね」

 

その時、A君はいつものように少し笑いながらそう言った。

 

それは褒め言葉だったかもしれないけど、皮肉屋のA君の言葉だ。

俺は「優しい」のだろうか。というか、優しかったとして、それが絶対に善であると言い切れるだろうか。自問した。今でも人に「優しいね」と言われることはあるし、自分でもそうなんだろうと思う部分もある。でも、その度に僕はA君にそう言われた時のことを思い出す。確かに自分は「優しい」のかもしれない。でもその「優しい」の中には、それをよしとする独善的な自分もいる。優しさの凶暴性を知らなずに人を傷つける自分がいる。優しさについて考える時、僕の目の前には黒く大きいドーベルマンが現れる。西日に照らされたA君の部屋で、大きな檻の中からこちらを見ていたドーベルマンが。

 

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その映画は、完成には至らなかった。

 

卒業制作として形にはしたし、それ自体は学内でそれなりに評価もされたけど、自分が当初思い描いていたイメージの通りにまとめることはどうしてもできず、撮影したシーンの大部分は削ってしまった。悔しくて、卒業して就職してからもなんども再編集を試みたけど、やはりだめだった。

 

その後A君に会って「映画はどうなりましたか」と聞かれるたびに僕はいつもは苦笑いしてごまかした。それからしばらく、そのやりとりはA君と僕の間の定番の「いじり」みたいになって、そのたび僕は苦笑いした。映画の話をしなくなってからも、僕はA君に会ってA君の清廉さに触れるたびに、いつも心の中で「いやあ」と苦笑いしていたような気がする。苦笑いは俗な人間の特権だ。僕はそうやって自分の俗な人生を守ったのだ。

 

大学時代のあのアルバイトがなかったら、僕のような人間とA君のような人間が出会い、それなりの時間を共に過ごして、心に触れるようなやりとりをすることはきっとなかったと思う。ただその場にいるだけですでに尋常でない空気を纏っているA君のような人も、当時から平々凡々としていた自分のような人間も、あの時は同じ灰色の上着を着て夜通しモニタの前で朝が来るのを待つだけの、ただのアルバイトの大学生だったのだ。

 

久しぶりにA君のことを思い出して彼の名前をインターネットで検索してみると、僕でも知っているような著名な批評家が彼の今年の展示について高く評価している記事があった。それを見て、遅すぎるだろまったく、と悪態を吐きつつも顔がにやける。作家同士の打ち上げのような場で、A君にしてはずいぶん朗らかに笑っているような写真も見つけて、そのことについてA君にどんな皮肉を言ってやろうか考える。

 

久々にA君を尋ねてみたいと思う。

幸い僕にはまだ、会いたい人に会える自由がある。

その時、未だ成長のない僕に死ぬほど辛辣な皮肉をいう彼の前で、

また僕は「いやあ」と苦笑いするだろう。

その時今の僕はどんな顔をするんだろう。

 

そのことを、とても楽しみにしている。

 

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