【マンガ】鳥山明『銀河パトロール ジャコ』について(2013.8.7)
鳥山明の事実上の最後の連載作品になるだろうと言われている
『銀河パトロール ジャコ』について、
連載中に数話読んだ段階で書き散らかした文章があったので保存のために再アップします。
自分でも笑うほど異常な熱量で書かれているので、鳥山話が好きな人以外はスルーした方が身のためです。トリヤマスキーな方だけどうぞ。
(以下本文)
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鳥山明、13年ぶりの連載作品。
今週で4話目。
とても不思議な漫画だ。
ストーリー進度は極めて遅いし、
物語中に流れる時間も、
「あれ?こんな漫画あったっけ?」と思うほどゆっくり。
一話の中に意図的に無駄、無為な時間が設定されていて、
読んでいるとだんだん呼吸が深くなってくるように錯覚する。
その間だけ時間の流れ方が変わるような、そんな体感がある。
なんてことはないが、あいかわらず非常にバランスのいい構図
なぜそうなるのか?
今週号、作中で初めて都会が舞台になり、
それに応じて作画の密度もわかりやすく上がった。
そのおかげで上記の理由が少し垣間見えた。
以下は、その不思議についての個人的な論考になる。
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鳥山明は、その画期的な作画手法で
かの手塚治虫すらも嫉妬させた男だ。
実際問題、漫画家の中でこれほどまでに
「イラストレーター」としての技能が卓越した作家は
日本漫画史上、他に類を見ない。
彼の場合、優れた他の漫画家と比肩するよりも、
ノーマン・ロックウェルやウォルト・ディズニーなど
海外のイラストレーターの文脈で語られるべき…とすら言われている。
全盛期の作画における説得力は、まさにそのレベルだ。
しかし、鳥山は近年デジタルペイントを使用するようになり、
正直言って絵の力はやや後退した。
いまののっぺりとした着彩も、徐々に別の魅力を獲得しはじめてはいるが、
元来の画風がペンによるアナログタッチとの相性が良すぎたのだろう。
当時を全盛としていまの作画を下に見る向きがあるのも頷ける。
しかし、漫画という、
ストーリーと作画を一度にこなさなけれなならない
日本独特のメディアの制約の中においては、
一人の人間ができることは自ずと限られてくる。
本作は、鳥山が本格的にデジタルに移行してから
初めての連載作品になる。
デジタルへの以降は、鳥山の「漫画」作品にどんな影響を及ぼしたのか。
「・・・・・」に現れるおなじみの鳥山ネームのリズム感
当然といえば当然なのだが、
デジタル体制は、アナログよりも仕上げや修正における
トライアンドエラーが容易で、結果として作業時間の短縮になる。
鳥山の作業においてもそれは例外ではないだろう。
鳥山は、その結果として、
「画面内のディテールを書き込む」時間を得たようだ。
元来、前述のノーマン・ロックウェルなどからの影響が色濃い作家なのだ。
ファンの間ではクロノトリガーの世界観設定の絵が絶賛されているが、
そうした「一枚絵で魅せる説得力」において、
他の漫画家とは完全に一線を画す実力の持ち主である。
しかしこれまでの漫画作品では、そうした側面は扉絵などに限られ、
こと漫画の内容については、もちろん圧倒的な画面構成力ではあったものの、
ディテールに関しては概ね簡略化された作画にとどまっていた。
「背景を書くのが面倒だから」荒野を舞台にした話が多い、、
というのは、わりと有名な話だ。
「クロノトリガー」のイメージボード。これを最高傑作とするファンも多い
「ジャコ」の作中に流れるゆったりとした時間の正体は、
そのコマひとつひとつに凝縮されたディテールの賜だ。
そして、ここで言うディテールとは、単なる書き込み量だけの話ではない。
(それだけを論じるならBASTARD!やベルセルクに敵うものはない)
鳥山の描くディテールは、
「その空間の中で生活をしているであろう人間のリアリティ」
に関するディテールだ。
いつもの、その他の漫画を読む心持ちでこの漫画に接する。
一見すると、情報量は極めて少ない。
僅かなセリフと、明快なコマ割りがあるだけだ。
しかし、そのコマひとつひとつに視線を捉える何かがある。
それは言葉ではなく、あくまでも描かれた「何か」が発するものだ。
その「何か」に心を奪われながら、
私たちは徐々に独特の時間間隔を体験していく。
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ここでもう一度ノーマン・ロックウェルの名を挙げよう。
是非、ノーマンのイラスト作品を見なおしてみてほしい。
その作品の中には、一枚の中に饒舌に語られる物語がある。
それも、「絵」のみで表現された物語が。
ノーマンの自画像。絵を描いてるのがそのまま鳥山本人に差し変わっても違和感ないこの感じ
そこには人間の関係性があり、
物語の前後を想像させるヒントが散りばめられている。
もしこの情報量の絵で漫画が描かれたら?
いかにもそれは、想像を絶するものになるだろう。
しかしそれは無理な話だ。
ノーマンのような偏執的な想像力に富んだ作風はあくまで
「一人の人間の執拗な想念」からしか生まれないものだし、
それでいて人間一人にできることは限られている。
その点においては、イラストレーターも漫画家もかわらない。
(宮崎駿という例外については、ここでは触れない)。
一枚で成立するイラストと、幾つものコマとページで構成される漫画。
それぞれに、力点が変わってくるのは当然のことだろう。
そして、鳥山明はやはり「漫画家」なのだ。
しかし、その矛盾に、デジタルの力がほんの少しだけ魔法をかけた。
デジタル化による作画時間短縮は、
絶対的な絵の魅力を鳥山作品からいくらか奪いはしたが、
「ノーマンのようにディテールの書き込みに費やす時間」を
わずかではあるが、鳥山に与えたようだ。
『ジャコ』の世界設定には、そうした鳥山本来の「妄想力」が作り上げた、
「この世界はここでこうなってるからこっちがこうで、だからこうなっている」
という、キャラクターのセリフの上では語られない豊かさが、
おそらくいままでの作品の中で最も継続的に、高密度で紙面に表現されている。
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無人島に住む老人の暮らす日本家屋のようす。
近くにある、事故で破壊されたままの研究所。
そのまわりにある森の自然、海の自然。
未来のような過去のような都会の暮らし。
そこに生きる人々、その多様性。
その書き込みの一つ一つが、おざなりのモブではない、
「描く喜び」を放っている。
(そんな風に細部を見つめる視点を、我々は普段の生活の中で持ち得ているだろうか?)
主人公が決めポーズを披露する後ろに二つ折りの座布団
描かれるディテールの中でも特筆したいのは、
モブも含めた登場人物のファッションの変化だ。
『ジャコ』第四話に登場する東の都にはたくさんのエキストラが登場するが、
その一人ひとりが特徴的な服装に身をを包んでいる。
元々鳥山はファッションに全く興味がないと公言している作家だったのだが、
ここでは非常にバリエーション豊かな装束の人間が描かれている
(ただのモブなのにもかかわらず!)。
想像するに、これはドラクエのキャラ制作に関わる
経験が功を奏しているのではないだろうか。
ドラクエは、最近作に至るまで、設定の違いはあれど
基本的に「勇者とその仲間」という一点突破でシリーズを続けている。
当然、衣装設定のネタも尽きてくることだろう。
結果、おそらく鳥山はその作業の中で、
様々な時代・人種・シチュエーションにおけるファッションの変遷についての
資料を集め、またそれらをイラスト的観点から吟味したと思われる。
いままでもモブの中に喋る動物がいたり、そういう意味でのバリエーションは
常に多かった鳥山作品であるが、本作においては
「全く違うファッションの人間たちが共存するが、不思議と世界は統一している」
という世界観を構築するに至っている。
保安官、ボガード風の宇宙人、魔女、忍者、野武士、中世騎士、スーパーカー、軽トラが調和する世界
集英社が主催するWEB漫画アプリ「ジャンプLIVE」上でのインタビューにおいて、
鳥山は本作が「構想に1年以上かけたこと」、
「おそらくこれが最後の連載作品になること」を明言している。
初期ドラゴンボールのおおらかさとも、
ペンギン村の牧歌性とも違う、
ただただゆっくりとした時間が流れるような作画/作風からは、
「ピークを過ぎた者が何かを懐かしむような視点」が確かに感じられる。
本作が全盛期の2作品を超える何かになるようなことは、正直、ないだろう。
しかし、
そんな老境に差し掛かったかつての天才(そう言っていいだろう)作家が
デジタルの恩恵を一心に受けることで、
初めて持てる能力の全てをマンガ表現という枠の中に落とし込もうとしている…
という、ある意味では”実験的”とすら言えることが、この作品では起きかけている。
『ジャコ』には、その可能性がある。
また来週、その他の多弁症的な連載陣に囲まれて、
そのページ部分だけひっそりと、わずかに温度が下がるような、
特異な空気を発する漫画を読むことができる。
それは私にとっては、とても贅沢で、大事な時間のようだ。
自分でも、ちょっとびっくりするほどに。
(2013.8.7 Facebook投稿記事からの再掲)