【音楽】女たちのエクソダス - 加藤ミリヤ feat.ECD『新約ディアロンリーガール』
サグめのラップばかり聞き慣れた耳には
「加藤ミリヤって歌上手いんだな」という今更なことが
妙に新鮮に受け止められたりする。
後半の短いバースに聞こえるECDの声。
声は聞こえどその風景の中にECDは見えない。
癌で闘病中の日本語ラップの始祖の一人。
それが父娘ほども年の離れたフィメールシンガーの名前を二度コールして、
彼のバースが始まる。
MVを撮ったのは若干21歳の新鋭作家、Spikey John。
「超wavyでごめんね」のビデオで鮮烈にデビューした彼。
世代を超えたマイクリレーが、ECDからミリヤへ、
ミリヤからさらに下の世代へと受け継がれていく。
その背景は渋谷、渋谷、渋谷。
'90s、ECDが独立独歩で戦った街。
'00s、ミリヤが女たちの孤独を歌った街。
'10s、そしてその先へと、
ネクストカマーたちがその夜に新しい意味を上書きし続ける街。
原曲で参加していたK-DUB SHINEが本作のリリースに当たって
自分へ参加の打診がなかったことをtwitterで批判している。
原曲におけるK-DUBの功績を思えばそれも無理はないが、
本作の狙いはそうした「復刻」にあるわけではない。
今この時代にフィメールシンガーであるミリヤが
この曲を「新約」と称する意味。
そこに今の時代だからこその
「女たちのエグゾダス」の意味を込めていることは言うまでもない。
冒頭、中盤、最後でラップされるたくさんの女性名。
架空の「わたしたちだったかもしれない誰か」を示すフロウの中で、
わずかに2名、明らかに特定の固有名がラップされる。
ECDの実娘二人の名前だ。
ただ渋谷の街中で女たちの受難を客観的にラップした当時と、
ECDが「番い、娘を持つ」という人生の物語に足を踏み入れ、
主体的に「女の人生」と関わった今では、
彼がこの曲の中でラップする意味は何重にもその重みを増し、更新されている。
「女たちのエグゾダス」は、そうやって円環状に私たち男にも接続される。
そして奇しくも、女たちの「男親」になったECDに残された時間は短い。
ミリヤが本作をこのタイミングで「新約」と称しリリースした理由が
そのことと全く無関係とは思えない。
(でなければわざわざ実娘たちの名前をタグするような必要がどこにある?)
孤独しかない街にECDの声がこだまする。
マジな話早く立ち上がれとミリヤが言う。
そして今もその街に立ち尽くす女たちのシルエットがある。
その一歩めが踏み出されるのはいつになるだろう。
道行く先はどこへ続いていくのだろう。