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備忘録と考えたこと

選挙結果の読み解き方 - あるいは「数の政治」からの脱却について

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衆議院選2017、おつかれさまでした。

議員はもちろん、有権者の我々も。

まったく何のための選挙だったのかも最後までわからないナメ腐った選挙で、小池新党のクーデターによる民進党の大崩壊など、有権者の心をかき乱す要素てんこ盛りの1ヶ月でした。本当におつかれさまです(国民全員)。

 

さて、そんなこんなで選挙は無事(無事?)終わったわけですが。

ここ数回の選挙では、「こんな大問題があったのになぜ自公は圧勝するのか!信じられない!」という、主に野党支持者の嘆き芸で締めくくるというのがお決まりのコースで、その「信じられなさ」の隙間を埋めるためか、毎度妙な陰謀論まで飛び出す始末でした。今回も似たような声は方々で見かけます。ただ、今回の選挙を「いつもと同じ」とまとめてしまうのはあまりにも勿体無い。勿体無いし、事実と異なります。

選挙は「結果をどう読み解くか」までで完結する遠足です。バナナもおやつも食べてOKなので、衆院選のクロージングを丁寧に締めくくりましょう。

それでは、遠足ならぬ選挙のしおりの最後のページをはじめます。お付き合いください。

 

 「自公圧勝!」うん、そうなんだけどさ?

さて、本日未明に全議席の当落が決定し、各メディアではそれぞれに「選挙結果の総括」というものが行われています。大勢としては、

自公圧勝、2/3議席確保で改憲へ加速

 みたいな見出しになっているかと思います。先日の拙ブログ(※言い方)での投稿でもご説明した通り、それ自体は事前の票読みから予測される範囲の結果であり、それほど意外性のない所に着地したと言えます。

ただ、この結果を単に「自公圧勝」という側面のみで評価することは総括として十分なのでしょうか?その点は大いに疑問です。

見た所、「有識者」の総括であっても、「間違ってはいないのだけど物事の片面だけを見ているなー」と言わざるを得ないものが多く見受けられます。

それぞれの有識者の方々はもちろん政治・社会・評論畑の専門家であり、その含蓄には一定の敬意を表した上での話なのですが、今僕が把握している状況から眺めてみると、なぜそれらの人々がこの結果を「一面からのみ捉えてしまうのか」、その理由が何となく見えて来ました。

一言で言えば、今回の選挙を挟んだ諸々の政治と社会の動きは、これまでの政治の常識的なルールとは違う「新しいルール」の萌芽があったのです。

 

政治の「新しいルール」を見ている人 / 見えていない人

そして、気付いてはいるけどそのルールの詳細を体感としては理解できていない人。そのような理解のグラデーションごとに、今回の選挙結果をどう総括するか?の指針が異なっているように見受けられます。そして、その違いは「その人がいま / これまでどこに立っているか / いたか」で違ってくるようです。

では、その「新しいルール」とは何か?

それを語るに、まず今回の選挙結果を色々な見地から見て行きましょう。

 

「自公圧勝」、その二つの側面

衆院選の結果は、議席数の結果だけで見れば完全な自公の圧勝に終わりました。

当初反与党勢力として最右翼(※意味深)と目されていた希望の党は、小池氏の失言などにより事実上の空中瓦解。その混乱から生まれた立憲民主党は急ごしらえの政党としては健闘しましたが、それでも50議席程度の結果に止まっています。

従来通りの「政治とは数合わせのゲームである」という視点から見れば、「自公は国民に信任され、今後もそのオーバードライヴ状態が続く」と結論づけるのが妥当でしょう。そしてもちろん、その認識自体は決して間違ってはいません。

しかし一方で、総得票数でみるならば、毎度のことながら野党の総得票数は与党の総得票数を上回っています。また、議席数も前回比でみるならば自公が「5議席減」、その他野党は「21議席増」ということになります(もちろんここには衛星与党である希望や維新も含まれているものの)。

この「大局の結果」と「ディテールの結果」の小さなねじれ。

私たちはこれをどのように理解すればいいのでしょう。

 

そもそも「小選挙区制」とは

前述の「小さなねじれ」を理解するためには、まず小選挙区制について理解しなくてはなりません。

現在の衆議院選で採用されている小選挙区制と呼ばれる選挙制度では、各選挙区で選ばれる候補者は必ず「1名」のみになるため、2位の候補が僅差で大量得票していても、その票は丸ごと「死に票」になります。その是正のために比例区投票という措置もあるわけですが、あくまで比例区の是正効果は限定的です。

※あまり詳しくない人のために補足すると、小選挙区よりも少し広い選挙区の中から複数名の候補が当選する中選挙区制の場合は、選挙区ごとの定数により2位以下の候補にも当選可能性があるので、必然的に死に票が生まれづらくなります。日本で94年に廃止されるまで中選挙区制での選挙が行われていました。

そうした「死に票大量生産」が運命付けられた制度の中で選挙を行う限り、そもそも「与野党議席が僅差になる」ということが起こりづらく、今回も「与党圧勝」と言っても、「いやそりゃ小選挙区だから勝つなら圧勝になるでしょ」というようなもので、その「圧勝であること」がすなわち「与党はめちゃくちゃ支持されている!」という意味の補強となることはありません。小選挙区制とは、単に「勝つと自然と点差が開くゲーム」というだけの話なのです。その自然と生まれる点差の開きの中に、前述の「小さなねじれ」も生まれてしまうというわけです。

小選挙区制はそうしたルールであるがゆえに、「2大政党制を見越して大逆転を誘発しやすい」とも言えるのですが、逆に言えば、与野党どちらかの『圧勝』以外の得票のニュアンス」を表現できないシステムである、とも言えます。

さて、では今回の選挙結果の中で「小選挙区制」の中に埋もれてしまった「得票のニュアンス」とはなんだったのでしょうか。

 

試合結果のスコアだけを聞く人 / 球場の中にいた人々

今回の選挙結果を受けて、多くの有識者

「やはり自公は国民に信任されている。アベノミクス憲法改正を進めるべき」

「左翼も健闘はしたが負けは負け。リベラルは敗北に向き合うべき」

などの論調でコメントを残しています。

うん、それも事実なんです。事実なんですが。

その「見方」は言うなれば、

「野球の試合の内容を見ずに、スコアだけを見て話をしている」

という状況に近いと言わざるを得ません。

 

確かに、ペナントレースの結果だけを語るならそれでも十分。ただ、「球場の中で何が起こったか」は、その球団の人気や、そこから広がる「最終的な球団の収支」に大きく影響を及ぼしますよね。「スコアだけを見ている人々」は、その情報だけで全てを語れると思い込み、「その中で起こった物語の意味」について見失いがちであるようです。

優れた球団マネージャーなら、試合結果の数字も重視しつつ、「その球場の中で起こった物語の意味」も十分に計算に入れて球団経営のアウトラインを設定していくでしょう。往々にして、その観点は「野球というジャンルそのもの」への貢献も意味しているかもしれない。実際いま、スポーツの世界でもそうした「文化としてスポーツを捉え直し、ファンの拡大を図る」というような改革を行おうとしている若手関係者が登場し始めていると聞きます。

今回の選挙の「ゲームの中」で起こったことは、そうした改革の可能性の萌芽を感じさせる変化でした。

「改革の可能性の萌芽」。そう、それは「新しいルール」の萌芽でもあります。

 

選挙結果、「数あわせ」から見るか?「熱量」から見るか?

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立憲民主党の枝野代表は、開票後の会見で以下のように語りました。

「『理念や政策よりも永田町の数あわせを優先している』と多くの国民が受け止めていたところに、違う次元で旗を立てたことに期待を頂いたと思う。国民の声をしっかりと受け止める仕組み作りを勝ち上がった仲間と一緒に早急に進めていきたい」

このコメントの中に、当記事で語りたいことのほとんどが含まれていると言っても過言ではありません。

今回の選挙に絡んだ「希望の党の発足」→「希望の党民進党の吸収合併」→「その後の崩壊」の流れは、 まさに「数あわせ」を最優先とする、旧来の政治ルールの中にいる政治家らしい判断でした。その意味で、この「混迷の政局ドラマ」に関わった登場人物たちは、非常に優秀な「旧ルールの政治ゲームプレイヤー」だったと言えます。

この方法は、例えば10年、いや20年前ほど前なら「いつものこと」として特に批判もなく受け止められ、一定の効果を残していたかもしれません(実際、現自由党の小沢さんが仕掛けた新党ブームとはそのようなものでした)。しかし今回、そうした「旧ルール」に一部の国民がはっきりと「もういい加減ふざけんな!」というメッセージを叩きつけ、かつ、それとは異なる意思を持って現れた政党に多くの票を投じたわけです。

これは、日本の政治史上の中にあってはけっこう画期的な出来事でした。

 

旧ルールでゲームを仕切るマスターたち

たしかに、これまでの政治の大部分は「数あわせ」で出来ていました。今もそうです。

何より「自民と公明の連立」という状態がその最たる例。与党は野党の連携を「野合である」と繰り返し批判しますが、えっと、どの口が言ってますか?という状態です。現状の自民と公明は水と油ぐらいに政策に隔たりのある政党であることは周知の事実です。

しかし、現実的に多数を取っているのはその自公連立政権であり、様々な議事運営を暴走と言えるほどにブン回してリードしています。彼らの「旧ルール」がそうであったからこそ、小池さんによる希望の党とそれに便乗した民進党の前原代表は「野合」を厭わず、多数を狙ったのです。

しかし、そうして続いた「野合」の政治が何を生んだか。

それは、多くの国民の中に膨らんだ、圧倒的に大きな「政治不信」の空気です。

「旧ルール」のマスターたちは、その巨大な「政治不信」の空気とその破裂を読みきれていなかった。更にいえば、選挙後の今この瞬間でさえ、その「政治不信の空気の膨張と破裂」を理解している議員とそうでない議員に二分されているとさえ言えるでしょう。そのぐらい、彼らはズブズブに「旧ルール」の中で生きてきたのです。

 

ペナントレースでの勝利」だけを唯一最大の目的としたその球団は、試合が荒れていることも厭わず、結果だけを求めて反則スレスレの遺恨を残すゲームばかり繰り返していました。その結果、気づけば球場に観客がいなくなってしまった。観客だけでなく、何名かのそれをよしとしない選手たちすらスタジアムを離れ離散してしまう始末。

そんな中、荒んだ野球に嫌気がさしていた一部の野球ファンたちは、スタジアムの外でそれぞれに動きはじめます。自らの手でバットを削り、ボールを縫い、何もない野原でとりあえず「プレイボール!」と叫んだ。

スタジアムからあぶれていた選手たちはその声を聞き、自ずとその声の元に集まっていく。グラウンドもなくメンバーも足りないその集まりが、やがて草野球のチームになり…。

言うまでもなくその草野球チームとは立憲民主党であり、その結党と選挙戦の中で育まれた「市民と政治家の連帯のかたち」の中に、前述の「新しいルール」が生まれたのです。

 

がんばれ!ベアーズは頑張れるのか?

まあ、「がんばれ!ベアーズ」って見たことないので適当に書いただけです。気にしないでください。

そんなこんなで現在の野球ファンたちは「野球」という一言ではくくれない、二つの「異なる野球」を見ています。旧来のルールに乗っ取り、引き続き大スタジアムで行われる殺伐としたゲームの野球と、新しいルールにより生まれ、そこらへんの土手でやっている生き生きとした草野球チームの野球。この二つがどちらも「野球」という同じ言葉で語られ、一方は大スタジアムから草野球を「弱小だ」と評し、一方は草野球側から大スタジアムを「付き合ってらんねーよ、あんなもん」と語っている。どちらも事実で、間違っていません。ですが、この双方の状況が見えている野球ファンはまだそんなに多くないようです。

ただ、草野球チームたる立憲民主ベアーズは今いい感じで注目を集めているため、早々に百戦錬磨のスカウトの目に止まり、形はどうあれ、インディーズで自由に活動している現状から「旧ルール」と同じ土俵である大スタジアムの方に引き上げられていくでしょう。

別に野球そんなに好きでもないのに野球たとえばっかりで意味わかんなくなってきたので具体的いうと、立憲民主党はいわゆる「支持母体」となる組織との付き合い方を決めなければいけないフェーズが早々にやってきます。

果たしてその時、いま立憲民主に許されている「理念の自由」は守られるか?

躍進したからこそ、立憲民主党は早くもその瀬戸際にいます。

 

仕事も政治も「スポンサー次第」?

例えば現在の自民党で言えば「経団連」「日本会議」など。公明党は「創価学会」。「日本会議」は自民党だけでなく多くの右派議員に一定の影響力を持っているとされます(あくまで『一定の』にすぎないとの話ですが)。一方、立憲民主党の母体であった民進党は、これまで「連合」という大きな労働組合の支援を受けていました。支援というより、ほとんど「支配」であったと言っていいかもしれません。

これまで民進党は与党と違う旗色を出そうとするたびに、連合の示す「原発容認」「緊縮財政支持」という方針に絡め取られ、「連合の言うこと聞かないとお金がもらえなくなっちゃうよーーウエーーーン!」と泣く前原さんや細野さんが巨大な壁となって立ちふさがり、「てかお前ら結局何がしたいのよ?」と言われてしまうようなフラフラ野党状態が続いていました。

「クライアントの手前、言いたいことが言えない」

この状況。

まるで普段の私たちみたいですよね。民進党は本当にサラリーマンの縮図みたいな政党だったわけです(いや、自公も同じか)。

しかし、そんなサラリーマン的苦悩が蔓延るオフィス街の横で、バットとボールだけで独自のゲームを始めたのが立憲民主ベアーズでした(また野球だ)。政局の混乱という焼け野原の中で偶発的に「誰の支援も受けていないチーム」として旗揚げすることができた立憲ベアーズ。これは、従来の大スタジアム型政局の中ではありえない結党スタイルでした。

しかし後ろ盾が「本当にゼロ」では何もできないのが政党というチームです。立憲民主党においては、その後ろ盾の役割を担ったのが「旧ルールの野球に嫌気がさした人々」=市民である、と表現しました。

では、その市民たちは本当にただそこらの野原をフラフラ歩いているド素人の市民たちだったのでしょうか。

 

「こんな人たち」には6年間の物語がある

2015年の安保法制強行採決から数えれば2年。

東日本大震災が起きた2011年から数えれば6年。

この間、日本の市民運動はそれまでと違うフェーズに入っていきました。とにかく大きな「政府への不信感」を火種に、それまで「無関心層」とされていた市民たちが見よう見まねで「市民運動」を展開。その中であるものは既存左翼団体のあとを継いで運営の形を刷新し、あるものは全く別のインディペンデントな運動の形を模索し…というように、「新しい市民運動の潮流」がそこかしこで生まれました。まるで、一つの音楽ジャンルが偶発的に生まれ、そのプレイヤーたちがあちこちで合流と離散を繰り返しながらシーン自体を育てていくような形で。

彼らがそれまでの「政治関心層」と大きく違ったのは、「既存の大きな政治運動に後乗りする方法での政治参加」ではなく、「まったく右も左もわからない中から手探りで政治参加の方法を打ち立てる」という「新しい物語」を経てきた人々だ、という点です。

そこに出来上がったのは、

「政治とはこういうものだ」ではなく、

「政治にはこうであってほしい」という理想を起点にした運動。

彼らがスタジアムの外でバットを削り、ボールを縫うことができたのは、この6年間の経験があればこそ。この「6年間の物語」の中でそれぞれの「力」と「手法」を得た人々が、支持母体のない立憲民主党を支えているのです。

 

右傾化する世界と、その中で光る左派政党の躍進という流れの中で

アメリカのトランプ政権を引き合いに出すまでもなく、現在、あらゆる社会で右傾化の波が問題となっています。これはグローバル経済の行き詰まりが引き起こす当然の帰結であり、国際社会の一部である限り逃れられない流れと言えるでしょう。

しかし一方で、イギリス労働党ジェレミー・コービンスペインの左派政党「ポデモス」を率いるパブロ・イグレシアスカナダのジャスティン・トルドーなど、「理想を語るだけでなく、やることをやる」型の中道左派/左派政党が、世界的な右傾化の揺り戻しとして台頭しはじめています。

そんな中、自国の中で正しく「市民による民主化」が行われた歴史のない日本でも果たして同じような左派政党の揺り戻しが起こるか。誰もが確信を持てていなかったわけですが、今回の立憲民主党の立ち上がりはその萌芽と言って過言ではない、「市民と政治家の連携」としての側面を"いまのところは"持っています。

果たして混乱の中から産み落とされたこの小さな政党は、その生まれた意味を失わずに成長を続けることができるでしょうか。それは、市民と政治家の作る「新しいルール」を知る人々 / これからそこに参加していく人々の力にかかっています。

 

これからの10年、あなたはをどちらの側に立って生きるか

先ほど、支持母体に首根っこを掴まれている既存の政党を「なんだか私たちみたいだよね」と表現しました。

そうです。私たちの社会にある「理不尽」や「仕方なさ」と同じ形の足枷が、政治の世界にも重々しく存在しています。これまでの政治のやるせなさとは、つまりは我々自身のやるせなさと同じものでした。政治だけでなく私たちも、あいもかわらず「古いルール」の中で生きている。

しかし、少しずつ社会は変わります。変えたくなくとも変わってしまうのが社会というもの。私たちの住む方の社会も、いま大きな変化の波に晒されています。

例えば、今まで私たちが「これは仕方ないことなんだ」とやり過ごしてきたことを一つ一つ吟味して取捨選択することを厭わない若い企業が、「新しいルール」を提げて、猛スピードで経済の世界で成長をしてきている。

同じ潮流が、政治の世界にも起きている。ただそれだけのことです。

 

「旧来の大スタジアムの外に自分たちの手でグラウンドを作ったチームが生まれた」

これが今回の選挙結果の、小選挙区制が作る「圧勝」の中に埋もれてしまった意味です。スタジアム側から見ればそれは取るに足らない変化でしかないかもしれない。しかし一度外に出てボールを握るなら、あなたはそこに「未来」を見るでしょう。

 

大きく古い大スタジアムの中で、スコアのみに一喜一憂する人生をまっとうするか。

何もない野原に出て、手作りのバットとボールを握り、裸足で駆ける人生を選ぶか。

 

どちらが「よきゲーム」を作り、「多くの観客」を集めることになるか?

それはまだ誰にもわかりません。

そのどちらも正解ではなく、また不正解でもないのです。

 

ただ、あなたはその選択のとば口に立たされている。

たとえ私たちそれぞれが別々の選択肢を選んだとしても、あなたも私も、選んだ場所で自分らしく生きられるように。切に願います。

 

これからの新しい10年が、あらためて楽しみです。 

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