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【アート】サンシャワー展に見た、日本の「不在」

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——東南アジアの若手アーティストは、日本の同世代と比べて、内なるモチベーションが強いということでしょうか。

 

そうですね。日本でも2011年の震災以降は社会に関わるアートが注目されるようになりましたが、やはり「国家とは何か」「民主主義とは何か」といったことを問わざるを得なかった東南アジアのアーティストからは、よりリアルな必然性や緊張感を感じる作品が多いです。

 

以上は下記リンク内のキュレーターのインタビューからの抜粋。

www.huffingtonpost.jp

 

 

サンシャワー展は、現代アジア美術の現在進行形の作品を、森美術館国立新美術館の2箇所を横断して一堂に介した大規模展示。その高い志と熱意は十分に伝わる展示だったが、見進めるうちに小さな違和感が芽生えはじめていた。

 

なぜここには、

日本の作品がないのだろう?

 

https://i1.wp.com/free-style-info.com/wp-content/uploads/2017/07/sunshower001-201707151-3.jpg?resize=600%2C450&ssl=1

 

日本人は往々にして「アジア」から自分たちを除外して、さも自分たちだけは俯瞰的にものを見る特権があるかのように振るまう。そうした態度は自分たちの社会を見つめる眼差しすらも曇らせるだろう。そこに温度差が生まれているのだとしたら、上記のインタビューで語られている狙いにも一定の理解はできる。

 

 

では、本当に日本のアーティストに国家や社会を語る熱量はないのだろうか。僕は日本現代美術について詳しいわけではないので、その実際はわからない。しかしたとえば、天皇制について批評的に表現した小泉明郎の作品が展示拒否された都現美の件はどうだったか。その程度のことは不案内な僕でさえまだ覚えている。

 

bijutsutecho.com

 

 

そうした作家の作品を観衆に広める側に忌避感があるとすれば、それは作家ではなく行政やキュレーターの問題だ。さらに言えば、そうした「問題作」に抗議する市民団体の動きを事なかれ主義的に受け流してしまう我々観衆の側に責任の一端がないと果たして言えるだろうか。

 

だとしたら。

この展示に日本の作品が並んでいないことは、その空白自体が何重にも重ね塗りされた「日本における芸術表現の不確かさ」の証明になってしまってはいないか?

 

 

もし本当に日本の現代美術作家にそうした「熱さ」や「当事者性」が乏しいのだとしても、それならその乏しさを表す現代美術作品を同列に並べてほしかった。それが日本の現実なら、それをそのまま突きつけてほしかった。なんであれ、「そこに何もない」という暗喩によってしか語れない社会とは一体なんなんだろう。

 

https://www.cinra.net/uploads/img/news/2017/20170329-sunshower05.jpg

 

 

都現美で問題とされた小泉明郎の作品はたしか、写真に写る昭和天皇のシルエットを空白にして描いたものだったと記憶している。都現美の展示ではその存在自体が空白にされた。そしてこのサンシャワー展では、アジア全体の俯瞰図の中から「日本」のシルエット自体が空白にされてしまった。

 

 

 

「空洞を中心にして同心円状になりたつ」と評される戦後日本社会の蜃気楼のような歪さを、六本木の上空から俯瞰して目眩がする。天気雨の光も水もそこにはも届かない。その白い闇には天気がない。