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smdhktが考えたこといろいろ

回遊型演劇(やりたい)宣言

回遊型演劇は面白い。とても面白い。

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Sleep no moreより。観客は全員仮面を被って鑑賞し、亡霊として物語に「参加」するという重層的演劇体験

 

だからやりたい。やりたいのです。

 

…でも、「そもそも回遊型演劇って何よ?」って感じですよね?

 

 

回遊型演劇という、この聞きなれないジャンルの魅力にここ数年(というか思えばずっと)どハマりし続けた私は、今や観るだけでは飽き足らず、それに類する作品の企画をあれこれ温めていたりするほどになりました。それらがうまく実現できれば、きっとその面白さも共有してもらえることでしょう(願望)。

 

この記事では、まだ回遊型演劇について未体験の皆さんにその魅力を存分にお伝えすると共に、「回遊型演劇、やったるぞ」という自分なりの夢の実現へ向けた宣言としたいと思います。「NY行きたい!」とSNSのプロフィールに書いておいたら行けたので(単なる自腹ですけど)、その手の言霊は信じることにしたのです。単純なんです。

 

てなわけで。やりたいぞ、回遊型演劇!

 

「回遊型演劇」という新ジャンル

 

さて、回遊型演劇とは何か? 

正確な定義があるわけではおそらくないですが、ざっくりと

 

「決まった観客席が設定されていない演劇の上演形式」

 

と理解していただければよいかと思います。つまり、観客は公演中に上演スペースの中をに歩き回り、おもいおもいの場所に移動しながらその空間内で行われる俳優たちの演技を、あるいは空間上の美術のある部分を、自由に観劇してよいということ。あとで詳しくお話ししますが、現代の鑑賞者の様々なニーズの変化を受けての、パフォーミングアートの側からの一つの回答がこの「回遊型演劇」なんじゃないかと考えています。

 

私はこれまでに、回遊型演劇と呼び得る公演を6つほど観てきました(定義を広げればもう少し増えそうだけど、とりあえず)。時系列でいうと、駒場アゴラ劇場を1つの大きなワンフロアと見立てて上演された東京デスロック「東京ノート」、赤坂で行われた「フエルサブルータ」、川崎の小さな廃工場で行われた鳥公園「↗︎ヤジルシ」庭園美術館の館内と庭をインスタレーションなども配置しつつ大きく使って行われたANTIBODIES「惑星共鳴装置」泣く子も黙る決定版、NYチェルシーの廃ホテルで公演が続いているSleep no more、そして北千住で今後アートスペースとして生まれ変わろうとしている複合施設跡、BUoYで行われたゲッコーパレード「ヘンリー6世」などなど。

各公演の概要については、ひとまず各リンクの外部記事を文字通り「回遊」してご参照ください。※適宜ネタバレを含むのでご注意!

 

独断と偏見を承知でいえば、上記の中では「Sleep no more」がダントツの完成度、そして規模。中心地から離れた廃ホテルでの公演とはいえ、さすがは世界に冠たるブロードウェイの人気公演。「マクベス」をベースにしたいくつものシーンのそれぞれを、5フロアにも渡る巨大な空間に見事に再現した美術だけでも圧巻のクオリティで、それだけでなく、構造上とても複雑な観客誘導の手法も非常に洗練されていました。お見事。

 

Sleep no moreをはじめとした各公演の詳細については、これを機にそれぞれ別稿に分けて自分なりにも詳細を記す予定。書けたらこちらにリンクを足していきます(元気があれば)。

 

(9/1追記。とりあえず一つ書きました。元気だったらしい)

smdhkt-memo.hatenablog.com

 

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Sleep no moreより。本編の開始前に待機させられるバーの様子。たまんなくないですか。アブサンのカクテルとか飲めます

f:id:smdhkt_blog:20170830233331j:plainゲッコーパレード「ヘンリー6世」より。公演全てがこんなにかっこいいわけではないけど、かっこいいところも多々ありました。

 

ここが面白いぞ、回遊型演劇

 

回遊型演劇は、公演中の観客の自由な移動が許されるがゆえに、自分の行動によって「その瞬間にどのフレームを選ぶか」が観客のセンスに委ねられます。ここでセンスとか言ってしまうと何か敷居の高さを感じられるかもしれませんがそんなことはなく、そもそも回遊型演劇には「正解となる視座」がないのです(それがあるなら一般的な座席ありの公演をすればよい話)。

 

大事なのは、その視座を観客自身が「自ら選ぶこと」それ自体。

 

観客はただ演出家と俳優によって与えられるものを池の鯉のように黙って口にするのではなく、自ら獲物を狩るように「自分なりの視座」を探す。その行為が、その公演と観客の間における一種の「異化効果」として機能するわけです。

 

www.instagram.comANTIBODIES「惑星共鳴装置」公演の、Instagramにアップされた画像集。どの「フレーム」を持ってしても、それ一枚では語りきれない全貌があることに注目

 

「自分なりの視座」を公演中に探し続ける、ということ。その「参加性」の部分に一般的な劇場公演と回遊型演劇の大きな違いがあるがあります。

 

instagoodな回遊型演劇

 

そうした自由度の一環として、回遊型演劇では上演中の撮影が許可される場合があります(上記参考作品では、「フエルサブルータ」「惑星共鳴装置」「ヘンリー6世」が撮影可能)。まさに「自分が選んだフレーム」をその場で写真に収められるわけですね。

 

これはSNS拡散時代の広告戦略の一環としての面があることはもちろん、ただそれだけではなく、やはり「フレームを選び、撮影する」ということ自体に「その場で行われていることに能動的に参加している」という気分を高める効果があると思われます。フエルサブルータなどは、全ての瞬間が激しく「インスタ映え」する展開のオンパレード。

 

こうした新たなニーズに鋭敏に応えていく欧米の演劇カルチャーの懐の深さと柔軟さには脱帽するほかありません。いやマジほんとすげえ。

 

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フエルサブルータの公演中の一コマ。このレベルのインスタ映えする光景が次々と観客の眼前で展開する様は圧巻というほかない

 

回遊型演劇に惹かれるのはワケがある

 

上記の通り、回遊型演劇には独特の面白さがあるわけですが。

 

私はなぜか以前から、「こんな公演(というか体験)があったらいいのになー」という妄想の中で、今でいう回遊型演劇のようなパフォーミングアートみたいなものをイメージしてきました。思えば不思議なものです。が、ちょっと考えて見ると、幼少期〜現在までに見聞きしてきたものの中で、現在の回遊型演劇の面白さに通ずるような要素を持ったものとの接触がどうやらたくさんあったんですね。

 

しかもそれは決して特殊なものではなく、私を含む現代の日本人の多くが体験してきた数々の代表的なアート/エンターテインメント作品の中に、古くからすでに「回遊型演劇的なもの」は指向されていたのではないか?というのが私の仮説。

 

つまり、日本人は回遊型演劇を求めている!と断言してみましょう。

してみました。

 

「物語の中に入ってしまいたい」という欲求

 

小さい頃ドラゴンボールとか読んでて、周りが全く見えなくなるほど没頭して、まるで目の前の絵が動いてるんじゃないかってほど集中して読んでいた経験ってありませんか?私はあります。

 

それと同じように、めくるめく冒険、その物語の中に身体ごと没入してしまいたいという欲求は、幼少期から何らかの物語エンターテイメントに触れた人の多くが素直に感じたことのある感情ではないかと思います。

 

ドラゴンボール以外では、例えば「ドラゴンクエストシリーズ」。ロールプレイングゲームというジャンルを初体験しながら、「実際に自分がそのフィールドにいて、手を振れば剣を振り下ろしたりできたらもっといいのになー!」と無邪気に妄想していました。今ではそうした妄想のほぼ全ては実際に商品化されています。本当に感慨深い。

 

TVゲーム以外だけではありません。皆さんはゲームブックというものをご存知でしょうか。メディアとしては「本」なのですが、短い章立てに全て数字が振られていて、読み手の判断によって「洞窟に入るなら何番、村に変えるなら何番」というように、指定された番号の章を跨いで読み進めるもので、それにより「自分の選択による物語」が作られていく…ていうやつです。昔これ大好きで、自分で作ったりした人も多いんじゃないでしょうか(私もです)。

 

ゲームブックは、その後に発売されるヒットゲーム「弟切草」などの元祖と言えます。そもそもロールプレイングゲーム自体が古くは「テーブルトークRPG」から発展したということを思えば、ゲームブックRPGの系譜のライト版みたいなものと言えるでしょう。これらに共通するロールプレイングゲーム」=「役割を演じる遊び」という言葉が、今になって新ためて強いインパクトを持って響きます。没入感とはすなわち、役割を演じることなのではないか?とか。

 

さらに、名作児童文学の中にもそうした没入感を見事に利用した作品があります。皆さんご存知、「果てしない物語」です。私はこれを映画でだけ見ており、原作を読んだのは大人になってからだったのですが、「本を読むこと」そのものを入れ子構造として利用した叙述の見事さは本当に秀逸で、こと没入感は映画よりも小説が何段階も上。大人も余裕で泣かせる物語とギミックがありました。そりゃー売れるわけだわ!

 

これらのように、ある種の物語エンターテイメントは、単に「物語が面白いからグイグイ入り込んでしまう没入感」ということ以上に、メディアのあり方自体を利用して「新しい没入感」の創出を指向し続けてきた歴史がある、と言えそうです。とりわけ日本の80〜90年代、RPG作品が社会現象とされるほど隆盛を極めた時代を通過してきた人間としては、そうした作品に対する感慨がだいぶ心の深いところにグサッと刺さっているようで。

 

私はどうも、その手の作品が存外に好きだったみたいです。

 

「没入型」の到達点としての「ゼルダの伝説 BotW」

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BotW、最高に次ぐ最高。押し寄せる最高の波が止まらない!

 

以上に話したような没入体験の一つの究極が、今年の初めに発売されました。

 

そう。ゼルダの伝説の最新作である「ブレス・オブ・ザ・ワイルド」です。

 

発売直後から、世界中で圧倒的な高評価。それを知った上で最高度の期待を胸にプレイをはじめましたが、まさかのさらなる期待値越え。自分史上ではダントツに極上の「ロールプレイング」体験でした。「マジ、理想、全部ある!」です。あとないものと言ったらパーティバトルぐらい?別になくてもいいや。でも釣りは実装してほしい。

 

ゼルダBotWの魅力はあらゆる場所で語り尽くされているのでそちらを参照してもらいたいし、何より実際に体験していただければ一目瞭然。なので諸々省きますが、その「新しさ」を強引にまとめると以下のような感じになります。

  

  1. プレイヤーが操作する「リンク」という主人公を、「自分ではない他者」と認識しつつも、その体験をプレイヤー側に「自らの体験」として納得させるための細かな配慮が序盤に全て用意されている
  2. 自分が介在していない場所にも常に別の生物(人間orモンスター)の生活が感じられる
  3. 走る、剣を振る、木を切る、火を付けるなど、プレイヤー≒リンクの行動が自然に世界に影響を与えて行く

 

話が随分遠回りしてしまったので、ここでグイッと本題に戻しましょう。

 

ゼルダの面白さの秘訣はそのほかにも多々ありますが(大中小様々なクエストの絶妙の配置による体験のリズム、視点の高低差を巧みに利用したマップの近--遠景の構成の完成度など)、上記三つのポイントはそのまま回遊型演劇の魅力ともぴったり重なります(!)。

 

さらにそれらをちょっと演劇っぽい用語で語り直すと以下の通りになるかと。

 

  1. プレイヤーが操作する「リンク」という主人公を、「自分ではない他者」と認識しつつも、その体験をプレイヤー側に「自らの体験」として納得させるための細かな配慮が序盤に全て用意されている『異化効果』
  2. 自分が介在していない場所にも常に別の生物(人間orモンスター)の生活が感じられる『世界観の外部への広がり』
  3. 走る、剣を振る、木を切る、火を付けるなど、自分の行動が世界に影響を与えて行く『参加感』

 

「異化効果」。これまでもだましだまし何度か混ぜ込んできましたが、一般にはあまり聞きなれない単語かと思います。これは、近代演劇のあり方を決定づけたとされるブレヒトが提唱した演劇用語なのですが、その勘所を正確に説明しようとするとなかなか言語化が厄介な概念です。念のため、以下に私が異化効果の語義として解釈しているものに近い解説のリンクを貼っておきます。

 

異化効果 | 現代美術用語辞典ver.2.0

ブレヒトにとって異化とはすなわち、身振りを模倣しつつもそれを通常とは異なる文脈のもとで反省できるよう引用し、しかも引用しているということを示すことであった。ブレヒトはそうして、真実であるかのように装うイリュージョニズムから観客を解放し、社会的な見地から人間相互間の出来事を批判するよう観客にうながした。

 

なんのこっちゃいですね。よし。説明がんばるぞ。

シンプルに一文でまとめてみましょう。

 

異化効果。それは、

 

「舞台上に起こす/起こる出来事と鑑賞者の間に、

 ある種の共犯関係を構築するための手法」

 

 

ということで概ね正解かと思います。

演劇の場合、舞台上で起こることは全てが常に「嘘(フィクション)」なのは当然ですが、優れた舞台作品の場合、その高度な演技や演出は「私たちの日常の一部」を正確に切り取り、それを舞台上に開陳することを可能にします。その時鑑賞者は、鑑賞者にとっての日常のリアリティを正しく"引用"している演技や演出を通して、「舞台上の仮構をある種の"体験的事実"として受け取ってもよい」というふうに、感受性の扉を開くのです。

 

もちろんこれらは全ての鑑賞者が意識的にそうした変化を「受諾し、自ら扉を開いていく」ようなものではありません。優れた作品ほど、鑑賞者は自分の感受性の扉が開かれたことに気づくまもなく、共犯者として物語に「没頭」していきます。

 

演劇に限らず優れたエンターテイメント/芸術は、それが一幅の絵画であれ、「異化効果」をはじめ、先ほど挙げた項目を満たしている場合が多いです。古くは写実主義の作品が「まるで目の前の額縁を前にしてその光景が広がっているかのように」鑑賞者に作品を体験させたことがそのまま上記の項目を満たしていると言えるし、それが当たり前の時代になって現れた印象派の絵画などは、写実手法ではなく「観察者の眼に映る光の印象をキャンバスに描く」ということによって、鑑賞者の「視覚を代弁」したわけです。それは広義の異化効果と言えるはず(多分)。

 

現代美術の時代になれば、上記の項目はより強く意識されるようになります。現代美術の祖とされるマルセルデュシャンの有名な作品「泉」(美術館に便器を置いてサインを施した作品)も、「美術館にアートを鑑賞しに来ている」という観客の立場を「異化」し、ある種の共犯として「参加感」を感じさせる作品でした。そうして始まった現代美術の展開は、上記の3項目をより強く前景化しようと目指すものが多いように思います。多いというか、基本的にそれを目指して作られている。

 

非常に大雑把にまとめてしまえば、演劇、アート、エンターテイメントはそれぞれ垣根なく、私たちの「没入し・世界を感じ・参加したい」という欲求にあらゆる技巧によって応え続けて来た、とすら言えそうです。

 

www.ggccaatt.net

 

強いて言えば、その「異化効果」が発揮される方法は常に「その時代の日常」に対するカウンター的なものになるので、常に変化するんですよね。「異化の方法は常に変化する」。これ、何気に大事な話です。

 

私たちは「参加」したい

「体験の時代だ」ということが、56年ほど前から盛んに語られるようになりました。いや、10年前からかな?

 

曰く、「CDは売れないが、フェスの集客は増えているというような話がそのきっかけでした。確かに録音芸術が隆盛を極めた時代というのはあって、そこには「録音でしか体験できないアート」というものがあリました(ビートルズ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・バンド」「リボルバー」等、他にも多数)。また、バブル期の日本でCDが飛ぶように売れたように、「大きな流行に参加する意味で音源を買う」という意味での参加感をを楽しんだ時代もたしかにあります(小室哲哉プロデュース作品などが代表的)。

 

しかしその後の飛躍的なオーディオ装置の進歩などにより、「録音でしか体験できないもの」の価値は徐々に減っていき、またかつてほど流行が一つのストリームに集中することなくなっていった結果、相対的に「ライブでの一回性の体験」というものの価値が高まっていったというのが音楽業界のここ10年の変化の定説で、一音楽ファンとしても、その理由づけにはある程度納得できます。

 

 

Revolver

Revolver

  

そのように、「複製芸術から一回性へ」という消費者の変化の影響を最もドラスティックに受けたのが音楽業界だったわけですが、その影響は音楽業界だけにとどまらず、ほぼ全ジャンルでそうした波が怒涛のように押し寄せて、様々なパラダイムを変化させつつあリます。

 

消費者と表現者の境界を喪失させたコミックマーケット文化も「参加型エンターテインメント」の典型だし、録音芸術として例外的に売れ続けるAKB48などのアイドルグループの作品も、菊地成孔が「CDは株券ではない」という著作で逆説的に「現代の日本においてCDは株券と同様になってしまっている」という現状を喝破したように、アイドル本人たちの序列に自分たちの購入履歴が影響する、ファンにとっての参加型エンターテイメントです。もしかしたらアイドル本人たちにとってすらそうかもしれない。

 

またそのほかにも、SNSによる参加と拡散を前提とした広告やイベントは、その成功/失敗の如何はさておき、あらゆる場所であらゆる手法が試行錯誤されている。「インスタ映え」という言葉も、そうしたムーブメントの中で生まれた言葉と言えるだろう。それがカフェのおしゃれなスイーツプレートであれ装飾されたナイトプールであれ、「インスタ映え」した写真の中に自分が収まる時、その人物はそうした企ての物語の中に確かに「参加」し、その参加感を楽しんでいるわけです。

 

参加を楽しむ時代の「演劇」とは

この時代にそうしたニーズがあるという前提に立った時、演劇という手法は相対的にその価値を高めていると言えそうです。なぜかと言えば、演劇は「ライブの一回性」「目の前にいる人間によるパフォーマンス」「異化の技法」などがすでに何百年にも渡って試行錯誤されて来たジャンルだから。

 

今に至ってそのメソッドは消費者のニーズにより強くなっているわけで、時代が演劇に追いついた!…というのはオーバーにしても、長い歴史の中で演劇の特性が特に有用とされる時代に来てるんじゃないか、ぐらいは言っていい気がしています。

 

f:id:smdhkt_blog:20170830224408j:plainギリシャ演劇の様子を描いた図。古代ギリシャは直接性民主主義発祥の地でもあることから、演劇という表現形式はその発生からすでに「参加性」という特性が含まれていたと考えることもできる

 

一般に演劇というと、文学座に代表される「古典の名作を仰々しく演じる小難しいもの」として、あるいはタモリの批判に代表される、劇団四季型の「突然歌い出すミュージカルという技法の馴染みのなさ」などを理由に、「自分には関係ないもの」とする人が未だに多い現状です。これはですね、端的にもったいない!

 

たしかに日本の演劇業界はそうした声に対してあまり好意的な変化を見せてこなかったという歴史(輸入芸術であるが故の教養主義の弊害)もありますが、そのままほっとくにはあまりにも惜しい。

 

変わりつつある実例もあります。

 

例えば、今や多くの人にとっての「一般教養」と化した漫画・アニメ作品をモチーフとし、若いアイドル俳優たちを起用した2.5次元ミュージカル。これらは(その芸術としてのレベルの高低はさておき)、そうした演劇の教養主義によって排除されたライトユーザーの多くを取り込みつつあリます。この流れは、例えばPixivのイラストを経由して絵画系のアートに興味を持つ人が増えることがあり得るように、本流の演劇芸術の鑑賞者を増やす可能性をも秘めているでしょう。過度に商業主義に傾くことには異論もあるでしょうが、例えばブロードウェイの上演作品には、そうした多様なニーズを打ち返す作品が常にラインナップされています。その多様性こそが、ジャンルそのものの正しい進化を生む土壌になるはずです。

 

つまり、演劇めっちゃ可能性あるんじゃね?

 

私もここ何年かの間に、ヒョンなことから演劇に携わることになった演出家の端くれとして、ここまで論じたような潮流の変化と演劇の可能性に、人知れず胸部周辺を微細ど動させている者の一人です(つまりドキドキしている)。ここまで論じた「参加性」の多寡は様々だが、そういうことを少なからず意識した演劇の企画をいくつか準備しているので、ご興味のある方は是非今後の動向を楽しみにしていてください。

 

※以下、拙作についてのリンクを参考までに。

 

「Closet」(2014)*1

twitter.com

 

「人柱が炎上」(2017)*2

togetter.com

 

その上でさらに、もう1点。

 

ここまで論じた回遊型演劇の魅力って、実はその多くの部分で日本的な伝統との親和性が高いと思うんですよ。最後に少しだけそのお話を。

 

参加型芸術と日本文化の親和性

日本の教科書を読めば必ず書いてあって問題にも出題されがちなお二人、岡倉天心とアーネスト・フェノロサという人物。その二人が現代でいうキュレーターの役割を果たし、「茶の湯」こそが日本芸術の真髄であるという仮説を披露して以降、日本が世界に大手を振って紹介できる芸術は茶道芸術を中心としたものになりました。それが当時の感覚としてどの程度妥当だったかはさておき、「世界」を相手取った時の日本の芸術の戦略性が、受け手と送り手の双方にとってすこぶるクリアになったことは間違いなかったかと思います。

 

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マシュー・バーニー「拘束のドローイング」より。biorkの元旦那による変態アートビデオの1シーン。茶道の超解釈。当時STUDIO VOICEか何かに大きく掲載されていたがネット上には小さな画像しか残っていない模様。残念。

 

茶の湯にまつわる芸術表現の魅力はほぼ無限にあるけど、これも強引にいくつかの項目にまとめてしまえば、例えば以下の通り。

 

  1. 「茶を点て、それを飲む」という行為を介した「参加型」の体験芸術であるということ
  2. 「茶室」というミニマルな空間を様々なものに「見立て」、そこに外部の世界までもを内包しようとする空間芸術であること
  3. 1と2の特性を洗練することで、「茶を飲む」という行為の中に幾重もの意味を練り込み、異化効果を成立させる芸術であること

 

回遊型演劇というこの稿のテーマに合わせて若干無理やりの感も否めませんが、上記の項目は茶の湯の魅力の解説としても特段間違ってはいないはず。実際に日本は、中世の時代にそうした高い芸術性を持った参加型芸術を国の根幹にすえていたわけです。実際それは世界的に見てもかなり特殊な状況だったはず。そこから得られる知見は、本来むちゃくちゃ有用なはずなんです。特に現代においては。

 

ただ残念なことに、そうした日本の古典芸術の特殊性は、むしろ海外の表現者の目を通してこそその意義が見出される例が多いですよね。「日本人が日本人に見せる表現」の中では、ある種「よくあるもの」としてあまり積極的に評価されない傾向があります。その理由として、明治維新や敗戦など、自国の文化に誇りを持つことが難しくなってしまったという悲しい歴史のせいってのもあるでしょう。

 

しかしだとしても、すぐ近くに「使える」伝統があるものを放置する必要はありません。自国の伝統芸術を一種の「ストック」として捉え、教養主義的に有り難がるのではなく、軽やかに学び、軽やかに現代に必要なものへと改変していく柔軟さが当の日本人にこそ求められます。ましてや2020に向け、嫌が応にも海外の目は集中するわけです。内向きなものばっか作ってる場合じゃーないですよね。

※ちなみに現状、2020の東京オリンピックはなくなるならなくなった方がよほど平和だろうと思う派ではありますが。

 

回遊型演劇に日本演劇の光明を見る(見たい!)

 

茶の湯についての文章の中で論じた通り、日本の伝統芸術には、体験型芸術に関する一日の長があります。演劇に足を突っ込んだ一人の表現者の端くれとして、その伝統と現代の潮流を接続する、ってのはすごくやりがいのあることな気がするんですよね。そして多分それは、数寄屋建築の舞台で回遊型やりましょうみたいな話ではなく、「見立て」とか「象徴性」とかの技法を駆使してまた別の世界を構築することなはずです。

 

回顧ではなく、あくまで進化を。

 

そしてそれはある表現者一個人の興味としての意味だけでなく、日本の過去と現在を縦に繋ぎ、現代の鑑賞者に「どこから来て、どこへ行くのか」という地図とコンパスを与える作品にもなるんじゃないかと、不遜ながら思うのです。たくさんの歴史が切断されて来た日本の近代だからこそ、やる意味があるんじゃないか、と。

 

その意味でも、私は回遊型演劇の広まりを心から歓迎してます。

 

「演劇」と名がつけば敬遠してしまう向きも多いのは百も承知ですが、入り口はアニメ(物語)でも、アイドル(人間)でも、音楽ライブ(体験)でもいい。それらの魅力を全て備えた(ものになり得る)エンターテインメントが、あなたの近くにある!ということにいつか気づいてもらえるでしょう。その時はまず同じ鑑賞者としてその感動を共有したいし、もしそれが私の作品であれば、それ以上の幸せはありません。最高more。

 

…なので、回遊型演劇、やります!(宣言)。

 

 

 

 

*1:無隣館ショーケース内で上演したオリジナル短編。事実上の処女作

*2:綾門優季の書き下ろし戯曲による。演出を担当。本公演が初演となる