その場所の居心地

備忘録と考えたこと

【舞台】チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

おそろしい完成度のものを観た。

 

https://chelfitsch.net/activity/.assets/timesjorney_tokyo.jpg

 

チェルフィッチュの新作公演。

観たのは「God Bless Baseball」以来だから、約2年ぶりになるだろうか。

 

僕も過去作の「三月の5日間」で思いっきり衝撃を受けた多くの人間のうちの一人なので、その後もチェルフィッチュの作品にはできる限り足を運ぶようにしていた。

 

ただ「三月の5日間」が方法論としてあまりにも「出来上がって」いたせいか、その後に続く作品たちにはどこか飛び抜けた印象を感じられずにいた。単に好きすぎて期待を大きく持ちすぎていたからかもしれない。そういうことはよくある。加えてここ最近は極端に席数の少ない変則的な公演が続いていたのでしばらく足が遠のいていたのだけど、今回は久々にチケットを取ることができた。

 

今回の作品、東京公演は三軒茶屋のシアター・トラムでの上演。

劇場に入ると、舞台上にはすでに照明が当たっていて、そこに並ぶ美術が目に入る。

 

テーブルと二脚の椅子。その上に水の入ったグラス。

舞台奥にカーテン。風に揺れている。

そして手前には…なんだろう?

小さなドラム缶?のようなもの。

中は空洞で、ときおり内側がふわりと光るのが見える。

その手前でレコードプレイヤーのように回転する円盤状のもの。

その上に石が乗っている。石。なんの変哲もない石。回転。

 

配置された一つ一つのものは当たり前のものなのに、

舞台上のその光景はすでに何かがおかしい。

 

 

気づけば劇場内にはうっすらとノイズ音が流れていて、

ほのかにうごめく美術はそのノイズに共鳴しているようにも見える。

舞台にはまだ誰もいない。

誰もいないが、何かの気配だけがある。ものが生む気配。

 

 

チェルフィッチュといえば独特な「しぐさ」の演出が特徴とされるが、ある意味今回はその演出を美術にまで拡張したということかもしれない。そしてその企ては高い精度で成功していたと思う。

クレジットによれば、美術担当は現代美術家久門剛史

作品群を見ると、彼の作品のいくつかがそのまま採用されているようだ。

 

美術と音の醸す静謐な緊張感の中、冒頭しばらく椅子に座ったまま背中だけを見せ続ける男。まるでどこか宇宙空間を浮遊しているかのように手足を空間に揺らしている。流れるノイズ音との間に規則性があるようでないような、うごめくモノたちと対応するようなしぐさ。人とモノの境目が曖昧になる。

 

一方で対となる女性の演者のしぐさはそこまで誇張されない。ただ、テーブルをなぞる手、水の入ったグラス越しに歪んで見える赤いマニキュア…舞台上のそんなディテールがはっきり記憶に残るほど、極めて「緻密」だ。

 

本作のテーマははっきりと「不在」だ。

「不在」をどう受け止めるか。「不在」とどう向き合うか。

 

「不在と向き合う」とはおかしな話だ。

だってそれはそこにいないのだから。

それでも向き合わなければならないのだとしたら、「不在」の側にそこに現れてもらわなければならない。

 

本作の美術、音響、演技、セリフ、そのそれぞれによる極めて緻密な「異和」の創出は、全てその「不在をそこに現す」ための儀礼だったかのように思える。それを必要とするものによる切実な、そのためだけの儀礼。それによって「不在」がこちら側に現れたのか、私たちが「不在」の側に引き寄せられたのか、それはわからない。

 

本作の冒頭で、客席に向かって語られるなんて事のない一言。

 

"PLEASE OPEN YOUR EYES."

 

目は開かれたのか、ただ閉じていたことに気づいただけか。

いまこれを書いていてもう一度それを反芻している。