その場所の居心地

備忘録と考えたこと

旅と物語とことばについて

バカンスに来ています。

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旅先の宿に書棚があり、ふと目についた背表紙を手にとってパラパラと読む。普段なら読まなかったであろうその物語が不思議なほどするすると喉元を通っていく。景色がクリアになるような体験。某有名女流作家の作品で、有名すぎて逆に手を伸ばし損ねていた、という感じの作家の本でした。

 

それはある旅をモチーフにした物語で。

 

ふだん旅ってそれほどしない(好きだけどなかなかできない)のですが、飛行機に乗りフェリーに乗って宿につき、「あ、今旅してるな」と気づいたのは、その場所の静寂に気づいた瞬間でした。鳥の声。凪いだ風。それだけ。

 

これは雑記なので話は飛びます。

 

以前、朗読会というものを催しました。

読み手は僕と、友人のなっちゃん

お客さんの前で、小説やら何やら、いろいろなテキストを朗読する。お客さんはそれを、美味しい日本酒を飲みながらゆるりと聴いている。テキストとテキストの合間にはそれらの物語をうっすらとつなぐようなおしゃべりがあり。そんなざっくりとしたイベントでした。

 

その時に何を朗読するか、本を選んでいて。読んでみたいものはいくらでもあるのですぐ決まるだろうと思っていたら、思いの外苦戦。声に出して読むことがしっくりくる本と、そうでない本というのがはっきりとあるのです。好き嫌いには全く関係なく。とても好きな良い本でも、ものによっては音だけで読んでいると意味すらわからなくなる、というものまであるほど。

 

たまたまかもしれませんが、結果的にそのとき選に残った本は、そのほとんどが女流作家の作品たちでした。そのことに気づいたときはなんだかすごく不思議で、だけどどこか当たり前のことでもあるかのような、名前のつけがたい納得感を抱いたものでした。

 

女性の扱う言葉。

男性の扱う言葉。

 

それは同じもののようでいて、全く異なる文法を持ったものだ。そんな話をよく聞きます。自分なりに解釈すれば、男性にとって言葉は論理を組み立てるための部品であり工具みたいなもの。それは実感として理解できます。

一方女性にとっての言葉は ー それはあくまでそのとき手に取った女流作家の傾向からの類推でしかないですが ー お互いのコミュニケーションのためにひとつずつ手渡す小さなギフトのような、そんなものなんじゃないか、という気がします。

 

朗読したときに口から飛び出るものがゴツゴツした工具であるより、ふわふわしたリボンに包まれたギフトボックスのほうが受け止めやすいですよね。男は工具でカチンカチンやり合うのも好きだけどさ。テーブルの周りに開かれた小さなギフトボックスがたくさん並んでいる。ギフトそのものも大事だけど、その光景を相手とともに眺めることがそれと同じくらい大事、というような。そして朗読にはそんな景色のほうが向いているようです。

 

その宿で手にした本の主人公は、旅先で「信じられないようなあざやかな黄色の肌をもつ鮫を目にした」ことから、閉ざされていた箱を次々に開けていくように、いろんな気づきを得ていきます。たとえば、「自分が本当にいたいと思う場所は」というような、生き方の根本に関わるような問いに対する気づきを。

 もっといえばそれは、答えを得てはじめて問いそのものの存在に気づくような体験です。

 

僕が旅に来て旅に気づいたのは、その静寂に気づいたときと書きました。

静寂には、言葉がありません。

男性の言葉が工具だとすれば、それはすでに「あるもの」を使って「まだここにはないあたらしいもの」を永遠に組み上げ続けるようなものかもしれない。一方女性の言葉とは、僕が感じた静寂についての気づきのように、渡されたギフトを開くことで「そこにはなかったはずなのに、ずっと前からそこにあったもの」を気付かせるような、そんな意味を持つもの。常になにか、言葉によって言葉の外側を指し示す機能を持つものであるような気が、いつもしています。

 

いつかここで手にした本と、それを旅先で読んだ自分のこの心模様を両方織り交ぜて、また朗読というとても素朴で小さなイベントの場に持っていけたらいいなあ。

 

もう少し旅してきます。

そして静寂が訪れる。