あれとか、これとか、物語とか

smdhktが考えたこといろいろ

だいぶ遠いところを経由して文化が人類に担うべき役割にまでたどり着いた話。

 

こんな記事が上がってた。

 

trhbi.hatenablog.com

 

とあるアルファツイッタラーさんによるイベントで頻発している犯罪行為疑惑と、それについての被害者の事後対応の報告。

ブラックボックス展」ていうの、長蛇の列ができるほどの話題らしいけど、事件化するまで全然知らなかった。そんなにTwitterに貼りついてなかったからだと思うけど。サザエbot氏が未だに一部に持ち上げられる存在だなんてほんと意外。

「これはアートか犯罪か」という線引きのグレーゾーンはアート史的にも常にあって、暴れん坊が多かった60〜70年代に試みられた諸々の危なっかしい表現にはそれ相応の対処法や法的な着地点が得られて今に至っている。そしてそれ自体が重要なアートの文脈(コンテクスト)の一部として、いわゆる職業アーティストたちの間では基本的な学びとして共有されている。

一方、この件のように近頃たまにある「それはアートではなく違法行為に限りなく近いものだろう」という批判を受けるものは、基本的にそうしたコンテクストを踏まえず、「門外漢だからこその思いつき」みたいなもので出発してる事例が多いように思う(時にアート業界の中にいる人すらその感じでやりっぱなす人がいるのはほんとどうかと思うんだけど)。

最近つくづく思うんだけど、「これまでに十分な体系だてがありそれが明文化されてるもの」に今から参加するなら、それがどんなことであれまず大事なのは「コンテクストを知ること」なんだと思う。さらにいえば必要なのは制作者がそれを知ることだけでなく、「その世界にはこんなコンテクストがあるということを常に観客に対しても周知し続けていくこと」だ。

近頃は表現の飽和やテクノロジーによる参入ハードルの消滅などによって、そのコンテクスト自体が事実上風化している事例が多くある。このコンテクストの風化とは、つまりそのジャンルにおける「バベルの塔の崩壊」を意味する。積み上げてきた歴史をなかったことにしてゼロスタートするということ。そう聞くとなんだかフレッシュでいいことのように聞こえるけど、それはつまり「人類はゆるやかであれ常に進化の階段を登っていけるはずだ」という前提を諦めてしまうことと同義だ。繰り返される車輪の再発明。で、たぶんそのことの重要性をかろうじて意識しコンテクストの風化に抗える仕組み作りをしているのが「学問」、つまり「アカデミズム」の世界。でもなんならそっちはそっちで丸ごと軽視されかけてる風潮すらある。その辛さ。

表現だけじゃない。政治もそう。人間そのものへの理解だってそう。生命の「あるある」をいかに共有し、共通言語としていくか。常に喫緊の課題としてあり続ける命題はそこだ(ここで僕は安易な規制緩和やちゃぶ台ひっくり返し系の政策に傾きがちな一部政党などは長期的には有害だと批判してますよお気付きですか)。

「文化」が本来担うべき役割とは、その「あるあるの共有」によるコミュニティの約束事に対しての「敬意と納得感」を保つことだと思う。それはそのままコミュニティ全体の安定に寄与する。かつて古代民族たちが口伝という形で保存し続けてきたものの意味と全く同じ必要がここにはある。では私たちは、それを一体何の形で残すべきなのか。という難題。

「文明」は常に暴走する。自分の器を超えて肥大しようとする。その意味で、人類を直接的に進化させる原動力になるのは「文化」ではなく「文明」。しかし、その暴走を側に見ながら「それでも絶対に変えようがない人間存在にとっての必要」を周知し保存するのが「文化」。そう考えると文化とはある意味で常に保守的な側面を持つものなんだと思う。

永遠に継続的に「保守」し続けるためには、常に暴走する運命にある「文明」の変化に合わせて、その変化した先の新しい視点から、あらためて「そこから見た場合の文化的あるあるとは」を語り変え、問い直し続けなくてはならない。それはどこまでも終わらない変奏曲のようなものになる。

文明によって楽器は変わる。音色も変わる。しかし奏でるべきメロディはいつだって普遍なのだ。長調は楽しげで短調が悲しげに聞こえるというルールを「常に周知し共有し続けなければ」、人間は他人となにも共有できない浮遊する単一のパーティクルのようなものでしかなくなってしまう。

とって付けたような目新しさに右往左往することが新しさのではない。常に「いま、ここで、コンテクストの上に立って語り直す」ことこそが永続する「新しい必要」なのであり、自分の仕事なのだという自覚を持っていたいと思う。

 

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