【与党/野党 両対応】投票先まだ迷ってる人が読む記事
さて、今週末いよいよ衆院選フェス2017が開催ですね。
当日は台風の影響で広範囲に雨が降る予報とのことで、
当日「雨だし風強いしいいや…」となりそうな人は、前夜祭(as know as 期日前投票)にシャレこむことをオススメします。
ここんとこ誰に求められるわけでもなく勝手にやってる
『現在の情勢から見た投票おすすめポイントまとめ』
今回も都会の片隅からひっそりとお送りしたいと思います。STAY TUNE。
今回の衆院選はいろいろあってわかりやすくなった
とはいえ、今回の選挙はこのひと月ほどに本当にいろいろな地図の塗り替えが起こり、結果ここ何回かに比べるとだいぶ力学がわかりやすく整理された選挙になったんじゃないかな?という印象です。それもあって、こんなギリギリになるまで記事を書く気にもならなかったんですね。だいたいわかるっしょ?という感じで。
とはいえ見落としてることもあるかもしれません。今回の選挙の重要性が死ぬほど高いことは間違いないので、念のため確認していきましょう。
※もう「小選挙区も比例も野党!」と決めている人は、最後の方の比例区の選び方についての章にすっ飛んでいただけると時間の節約になります
【大前提】今回の選挙は「極右」「保守リベラル」の"2極"
報道では未だに「自公 vs 希望 vs 立憲民主/共産/社民」の3極、とする見立てが多いようですが、それは端的に言って「ただの間違い」です。
ご存知の通り、小池都知事が立ち上げた希望の党は、前フリとしては「自民のしがらみ政治を潰す」ということで、反自民色を前面に出してアンチ安倍票をかき集める戦略で選挙戦をスタートしました。しかしその後、これまでリベラル側の第1党であった民進党が、前原代表の空気の読めないクーデターにより希望の党に全員合流、しかもその後に希望側が「でもリベラル色の強い民進党議員は"排除"します」と公言したことで希望の党が「ぶっちゃけ言ってること自民とほとんど変わらんやん」ということが明るみに出てしまいました。その後、大きな批判を受けて希望の党は支持率が激落ち。衆院選後の身の振り方を模索するあまり「自公との連立も否定しない」との声も漏れはじめ、実質「衛星与党」としての性格をモロ出しにしてしまうという結果になりました。
小池さんももう少しだけ嘘つき続ければよかったのにね。完璧な人間がいないのと同じように、完璧なファシストもいないんだな〜とホッコリした次第。
そうした混乱の中、「とにかく愚直に普通のことを言っていく」というストレートな戦略の立憲民主党が立ち上がり、日に日にそのプレゼンスを増しています。その人気の背景には、共産が圧倒的な覚悟を持って多くの選挙区で候補者を下げ野党候補を一本化し、野党共闘の素地を作っていることも大きく下支えになっていると言えるでしょう。そのブレない頑固一徹ぶりはさすが共産、という感じです。
さてさて、では私やあなたはどの政党が「着心地が良い」か?
フィッティングルームで試着してみることにしましょうー。
「予想される未来」から選ぶ、投票先フィッティング
続きを読む【アート】サンシャワー展に見た、日本の「不在」
——東南アジアの若手アーティストは、日本の同世代と比べて、内なるモチベーションが強いということでしょうか。
そうですね。日本でも2011年の震災以降は社会に関わるアートが注目されるようになりましたが、やはり「国家とは何か」「民主主義とは何か」といったことを問わざるを得なかった東南アジアのアーティストからは、よりリアルな必然性や緊張感を感じる作品が多いです。
以上は下記リンク内のキュレーターのインタビューからの抜粋。
サンシャワー展は、現代アジア美術の現在進行形の作品を、森美術館と国立新美術館の2箇所を横断して一堂に介した大規模展示。その高い志と熱意は十分に伝わる展示だったが、見進めるうちに小さな違和感が芽生えはじめていた。
なぜここには、
日本の作品がないのだろう?
続きを読む回遊型演劇(やりたい)宣言
回遊型演劇は面白い。とても面白い。
Sleep no moreより。観客は全員仮面を被って鑑賞し、亡霊として物語に「参加」するという重層的演劇体験
だからやりたい。やりたいのです。
…でも、「そもそも回遊型演劇って何よ?」って感じですよね?
続きを読む
【映画】マンチェスター・バイ・ザ・シー
曇り空の港町の風景。
志が高いのか低いのか計りかねる、灰色の景色。
映像のトーンもこの時点では決して上質とはいえない。
そんな風に映画ははじまる。
景色は寒々しいマンチェスター港から雪景色のボストンへ。
これはアメリカのマンチェスターの話。
そしてボストンで雪かきをする陰気な男がスクリーンに現れる。
男の名はリーという。
観終わって、とても余韻が長く尾をひく映画だった。
なぜだろう。
地味な、とても地味な映画だ。
ドラマはある。強くあるのだけど、ことごとく沸点となる描写を回避している。
全てが日常の、灰色の街の景色の中に落とし込まれている。
主人公のリーは訳あって故郷を離れ、ボストンでアパートの便利屋をやっている。人望厚く皆に愛された兄が心不全で亡くなり、遺された高校生の甥・パトリックの面倒を見るため一時休職して故郷に戻るリー。なぜリーは故郷を離れたのか。パトリックの面倒は誰が見るのか。兄の遺言は。ゆっくりとストーリーは進んでいく。
リーはあまりにも不器用で寡黙だ。口も悪い。なぜそうなったかの理由も作中で語られるわけだが、なんであれこんな中年が近所にいたらいい気はしない。実際、リーは職場でのウケも最悪だし、本人もそれを悪びれる様子がない。そんな男が主人公な時点で特にロクなことが起こるはずもないし、実際起きない。どこにでもありそうな中途半端な不幸と中途半端な日常の描写がつぶさに続いていく。
中途半端な不幸、中途半端な日常。
作中で語られる「ある不幸」は中途半端とは言えないエピソードだ。
ただ、この作品の中で流れる時間は常に何かが「うまく行かない」。
いつも余計な何かがそこには起こって、
完全にシリアスな状況にも、完全にハッピーな状況になることもない。
人々はいつだって目の前のそれに対応するのに手一杯だ。
リーは一人残された甥のパトリックの後見人になるという突然の役割を、陰気な独り言を呟きながらもとりあえず全うする。遺産となる船はどうするか。家は。遺産は。一つ一つ道筋をつけていく。これからパトリックの進んでいくだろう道と、進むべき道をとうに失っているリー。二人の境遇がじょじょに重なって見えてくる。
大なり小なり、毎日起きる「余計なこと」。
これがなければ完璧だったのに!なんて日はいくつもある。
でもそれがなくなる日はないし、
完璧みたいな不幸な日にもそれは起こる。
ならば人生ってのは、その「余計なこと」の方にあるのかもしれない。
「余計なこと」の前では私たちは苦笑いすることしかできない。
苦笑いして、やれやれと重い体を持ち上げて今日も歩いていく。
鑑賞後、銀座の街を行く人々を眺める。
みんな生きて、それぞれに苦笑いしている。
結構なことじゃないか。歩いていくとするか。