あれとか、これとか、物語とか

smdhktが考えたこといろいろ

【マンガ】鳥山明『銀河パトロール ジャコ』について(2013.8.7)

鳥山明の事実上の最後の連載作品になるだろうと言われている

銀河パトロール ジャコ』について、

連載中に数話読んだ段階で書き散らかした文章があったので保存のために再アップします。

自分でも笑うほど異常な熱量で書かれているので、鳥山話が好きな人以外はスルーした方が身のためです。トリヤマスキーな方だけどうぞ。

 

 

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 (以下本文)

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【演劇】赤堀雅秋『鳥の名前』- 演劇の"映像性"についての覚書

http://www.comrade.jpn.com/_src/1122/tori_om_ol.png

 

少し前に観た演劇について、ふと思いついたことがあり書いておく。

 

劇団ザ・シャンプーハット主宰であり、映画方面にも活躍の場を広げる赤堀氏の作・演出作品。不勉強ながら赤堀氏の作品を観たのは初めてだった。

 

端的に言って、面白かった。

描かれているのは日本の地方都市のグズグズしたダメ人間たちの様相、という感じで、それ自体はやや手垢のついたモチーフだ。ただ、自分がそうしたものをあまり好んで観てこなかったこともあってそれ自体が思ったより新鮮に感じられたし、出演した俳優たちの実力や持ち味と、物語のトーンをうまく融けこませることに成功していたと思う。観終わって、しっかりとエンターテインされたという実感があったし、かと言ってその言葉で文学性の低さを揶揄したくなったわけでもない。そこにはちゃんと鑑賞後に残る余韻、風合いがあった(と思う)。

 

それはいいとして、ここで書き留めて置きたいのは、その演出面の話だ。

 

本作の冒頭から15分ほどを観ていて強く感じたのは、「これは強く映像的な作品だな」ということだった。ある「カット」が、舞台のある場所で展開する。と、あるきっかけで場面が切り替わり、別の「カット」が、舞台の別の場所で始まる。と言った図式があり、この切り替わりがセリフのリズムや使用される音楽と強く連動している。非常に「編集的」であると感じたのだ。

 

また、舞台美術としても、空間を上下/左右に概ね4分割し、それぞれを別の場所として扱うようなタイプの演出が行われていた。つまり、観客席側から「投射された平面」のように空間が扱われている。すごく雑に言えば、4分割画面で構成された映像作品のような状態だ。もちろん演劇には演者の肉体が伴う分、舞台上の「ある一部分」に観客の目を釘付けにすることが演出的に可能で、実際に映像を4分割にした時ほど平面俯瞰的にはならないのだが、上述したその他の映像的テンポ感もあいまって、「あ、これこのまま映画にしてもいいやつだな」という印象を強く持った。

 

でもだとしたら、この作品が演劇である必要とはなんだったんだろう?

今回書いておきたかったのはその部分の話だ。

 

本作は非常に映像的だったし、それを本作の優れたポイントして論じることもできそうな気がする。実際に、ありありと想定された街、室内、あぜ道の様子が脳裏に浮かんだ。だが、それは逆に言えば、観客の側に「こういう話の時はこういう感じの映像だよね」という約束事が浸透しているから成立したことなのではないだろうか。

 

すでに書いたように、本作のモチーフは若干手垢のついたとも言えてしまう、非メジャー作品を見慣れた観客には好意的に受け取られやすい世界観のものだった。当然、それらの設定は観客の脳裏に一定の「像」を結びやすい。あえて嫌な言い方をすれば「安易」に。だとしたら、これが全く異なる文化圏で上演された場合はどうだっただろう。そういうことに耐えうる普遍性がこの作品にはあったのだろうか。

 

「閉鎖的な地方都市の空気というもの自体を観客の心理の中に空間として浮かび上がらせることに成功している」・・・というような言い方も、あるいはできるだろう。その観点から見れば本作は申し分なく、実際に成功している。それに加えて、「デビットリンチ的」とよく言われるような怪しさの演出もうまく決まっていた(でもやはりその"うまさ"も映像的な"うまさ"だ)。だが、その「閉鎖的な空間性」に、「そもそも演劇がもっている空間性」はなんらかの形で寄与していただろうか。スズナリの狭さが?劇場自体の古さが?いや、それだけでは何かの言い訳みたいに聞こえる。やはり、本作に必要な「空間性」を 観客に体感させるにあたって、演劇的にできたことはもっとあったんじゃないだろうか。そう思えてならない。

 

赤堀さんは多分、これからも映画方面で仕事をなされるだろうし、多くのよい結果を残されるだろう。でも、だとしても、演劇は別に映像のためのプロトタイプではない。やはり演劇には演劇としての強度を期待したい。そんなことは多くの観客にとってはどうでもいいことかもしれないけど、自分がわざわざシネコンよりも居心地がいいとはお世辞にも言えない芝居小屋に足繁く通う理由はそこにある。赤堀さんの作品にもそうした演劇性が強く反映されていたもの、今後上演されるものでそれが強く出ているものが、あるいはあるのかもしれない。だとしたら、その作品を観てからもう一度本作について考えてみたいと思う。

 

 

 

 

 

【音楽】女たちのエクソダス - 加藤ミリヤ feat.ECD『新約ディアロンリーガール』

サグめのラップばかり聞き慣れた耳には

加藤ミリヤって歌上手いんだな」という今更なことが

妙に新鮮に受け止められたりする。

 

youtu.be

 

後半の短いバースに聞こえるECDの声。

声は聞こえどその風景の中にECDは見えない。

癌で闘病中の日本語ラップの始祖の一人。

それが父娘ほども年の離れたフィメールシンガーの名前を二度コールして、

彼のバースが始まる。

 

MVを撮ったのは若干21歳の新鋭作家、Spikey John。

「超wavyでごめんね」のビデオで鮮烈にデビューした彼。

世代を超えたマイクリレーが、ECDからミリヤへ、

ミリヤからさらに下の世代へと受け継がれていく。

 

その背景は渋谷、渋谷、渋谷。

 

'90s、ECDが独立独歩で戦った街。

'00s、ミリヤが女たちの孤独を歌った街。

'10s、そしてその先へと、

ネクストカマーたちがその夜に新しい意味を上書きし続ける街。

 

原曲で参加していたK-DUB SHINEが本作のリリースに当たって

自分へ参加の打診がなかったことをtwitterで批判している。

原曲におけるK-DUBの功績を思えばそれも無理はないが、

本作の狙いはそうした「復刻」にあるわけではない。

 

今この時代にフィメールシンガーであるミリヤが

この曲を「新約」と称する意味。

そこに今の時代だからこその

「女たちのエグゾダス」の意味を込めていることは言うまでもない。 

 

冒頭、中盤、最後でラップされるたくさんの女性名。

架空の「わたしたちだったかもしれない誰か」を示すフロウの中で、

わずかに2名、明らかに特定の固有名がラップされる。

ECDの実娘二人の名前だ。

 

ただ渋谷の街中で女たちの受難を客観的にラップした当時と、

ECDが「番い、娘を持つ」という人生の物語に足を踏み入れ、

主体的に「女の人生」と関わった今では、

彼がこの曲の中でラップする意味は何重にもその重みを増し、更新されている。 

 

「女たちのエグゾダス」は、そうやって円環状に私たち男にも接続される。

そして奇しくも、女たちの「男親」になったECDに残された時間は短い。

ミリヤが本作をこのタイミングで「新約」と称しリリースした理由が

そのことと全く無関係とは思えない。

(でなければわざわざ実娘たちの名前をタグするような必要がどこにある?)

 

孤独しかない街にECDの声がこだまする。

マジな話早く立ち上がれとミリヤが言う。

そして今もその街に立ち尽くす女たちのシルエットがある。

その一歩めが踏み出されるのはいつになるだろう。

道行く先はどこへ続いていくのだろう。

 

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わたしたちは毀損されながら - そして今の10代は何を思うか(というただの想像)

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残念ながらこちらのカトルドさんの話ではなく、本家さんの方のお話です。

 

72時間テレビでのパロディのほう見てる間に本家さんのほうが来日され、パロディのヒドさを軽々と飛び超えたバッドガイぶりを見せつけてくれたようです。
あ、鯉のエサの件がフェイクだったことは知ってますよ念のため。

 

俺の兵器買うよな?な!?

 

共同会見中に堂々と兵器のセールストーク、「Youらは2番な。Weが1番」という、きょうびジャイアンも言わなそうなメッセージ。天皇との謁見に際しジャケットの前ボタン開けっぱなしで握手を求めてしまう儀礼を失した態度などなど、そのほかにも多々(ちなみに安部首相もメラニア夫人をイヴァンカ夫人と呼び間違えるなどして余裕の応戦を見せた模様)。

 

しかしそれにつけても、ここまで同盟国のトップにストレートにマウントを取られて、それでもハイハイニコニコと従者のようについて回る態度とはどうしたものなのでしょう。

 

さすがにこれはネトウヨさんもそれなりに不満だろうと思ってのぞいてみたら、

 

「厚い信頼関係!頼もしい!」

「兵器買いましょう!なんなら核兵器も!」「この調子で北を滅ぼしましょう!」

 

みたいな感じで、むしろ好調でした。

例の自称宮家の末裔、竹田恒泰とかもまんまそんな感じです。武器買えるのが嬉しくて大はしゃぎ。絶好調だね。

 

そんな昨今、巷の若者は自民支持が多いと言われています。まあ自民時代しか知らなくて、いまだに野党は(まとめサイトとミヤネ屋では)どーしょもない悪役とされていて、安倍自民時代で前よりはマシになってると(まとめサイトとミヤネ屋では)言われてるし…と来ると、そんな感じなのもわからなくはない。

 

でも、この露骨なDoggy Style外交はどう見えるんだろう?と素直に気になる。

シンプルに、「うちの首相……ダッサ😭」てならないのかな。それとも、すでに「ゴマすってプライド捨てても実を取るのが大人」みたいな価値観が心の底から染みついているのだろうか。

 

実際、一部ではトランプ氏の以下のような発言を

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「大成功!まるでBLのような安倍さんのラブラブ外交手腕!」

みたいな評価が飛び交っています。

うんまあfriendshipとか書いてあるけどさ。。そのほかも読もうぜ、て思うんだけど。

 

そんな中にあって、いまの10代、それも選挙権のある18歳ぐらいの人々は安倍首相率いる自民党支持がメジャーだと聞きます。そこには一体どんなメンタリティが働いているんだろう。もうティーンエイジャーの気持ちを代弁できるとは逆立ちしても言えない年齢になったからこそ、そんなことをふと考えてしまう。

 

「今の10代」と呼ばれる人が生きてきた日々を。 

 

彼らが生まれたのは1999年。

バブル崩壊の余波。しだいに暗くなっていった世紀末の時代。

2001年にはNY同時多発テロ

その後のイラク戦争。世相に光はなかなか見えない。景気の悪化。

旧民主党が政権を取っていた2011年の震災時には12歳。きっと親世代から民主党議員の悪評をたくさん聴いたことでしょう(俺だってその頃は菅さんや枝野さんのことを悪く言ってたよ、たしか)。

ネットに触れるようになるのもこの頃だろうか。そしてまさにその時期から自称保守の人々のネットでのデマゴーグ作戦が水面下で盛り上がりを見せた時期。ニコ動全盛期でもある。ボカロとヘイトの時代。

2012年暮れ、第二次安倍政権発足。

翌年以降、「アベノミクスによって景気は上向いた」といたるところで喧伝される。親御さんの勤め先の株価も持ち直したかもしれない。

2014年、秘密保護法施行。15歳の彼らは受験でそれどころじゃない。

2015年、ISILによる日本人人質殺害。

その時彼らは多感な思春期、16歳。

きっと例の胸糞の悪いISILによる動画を、YouTubeやらニコ動やらで探して、友達同士で見せ合ったりしたことでしょう。その時クラスの中はどんな雰囲気だったろうか。最近話題になった自毛申告書みたいな校則は彼らの学校にもあっただろうか。そうした理不尽を「やりすごす」彼らの目には、後藤さんや湯川さんの姿はどんなふうに見えたでしょう。

 

そして2017年、いま。

冒頭にあげたようなトランプ大統領のデイリー狼藉っぷりは様々に報じられていますが、いまやNHKすら「鉄板焼きを召し上がりました!」などの報道に終始する始末。狼藉動画が彼らの元まで届いているかはなんとも言えない。進学して親元を離れ、情報源がスマホだけだとしたら、そんな動画でギガ減らしたくないよな。

 

となれば、巡回してるまとめサイトをまず見て漠然とした印象を掴んで、よっぽど気になれば詳細を探す、とかそんな感じかもしれない(いや、そうしているのは果たして若者だけと言えるだろうか)。安倍さんがバンカーで転がったのはネタになりやすいから知ってるかもしれないね。あの間抜けな映像は親しみやすさの一部として受け取やれるだろうか。どうだろう。

 

圧倒的強者に阿る生き方。

そうすることが「大人になること」と評価される、そんな風潮。

政党の支持不支持は、もちろん個人の自由です。今知らなくても、知らないことは後で学んだまた考えればいい。

 

しかし、「あれが大人のあるべき姿」と無意識に前提化してしまうヤングが増えないことを願います。君はもっと誇りを持ち、自分という個人を大切にして生きていい。本来、他者との信頼関係というものはそうした足場からしか生まれないはずなのだけど、どうにもこの国には「阿るか」「蔑むか」この二択でものを考える人が多いような気がする。

 

人が人を対等な他者として見ることは難しい、というあるある

 

振り返れば自分にも、「阿るか」「蔑むか」でしか他者と付き合えなかった頃がありました。それこそ10代の、まだ何もわかっていなかったころ。その時なぜそうしかできなかったのか今ならわかります。あの時の自分は、自分になにも自信が持てなかった。みんなが自分よりマトモに見えたし、そうでないやつはそんな自分よりも下の、取るに足らないやつだと思っていた。恥ずかしい話。

 

いまはなんだか、世の中全体がそうした「自己評価の低さ」を内面化したまま大きくなってしまっているように思えます。国のトップの生き様がまさにそれを体現してしまっている。そしてそれを、みんながこぞって「大人になるって、そういうことだ」と自分に言い聞かせているような。

 

違うよ、大人になるってことは。

friendshipも信頼も、そういうことじゃない。

 

「じゃーさ、大人になることは金になるの?」そんな声が聞こえる気がする。

そーだなあ、ならないかもなあ。でも。

 

この「でも」の先に続く言葉を、何よりも強く響く言葉を、私はずっと獲得したいと思っている。本当の意味で「大人になること」を、世界全体が放棄し嘲笑うような、そんな時代ではあるけれど。

 

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【演劇】柳生企画『ひたむきな星屑』

風景の見える演劇

 

「演劇には風景がない」

そう思っていた時期が私にもありました。

 

無隣館2期卒、現青年団演出部の柳生二千翔による作・演出の本作。批評家の佐々木敦氏が三鷹に作ったSCOOLというスペースで観劇しました。

 

scool.jp

 

冒頭に書いた通り、本作は「風景の見える演劇」でした。

 

かつて私が学生だった頃、「物語のあるものを作りたい」と思い立ち、自分がぼんやりと進もうとしている道の向こうに「演劇か映画(映像)か」という分かれ道がありました。結果として私は、映画ではないものの映像の世界に進んだわけですが、その時演劇を選ばなかった理由としていたのは「風景を使ってものを語ることができないから」というものでした。

 

映像には「風景カット」というものがあり、ただヒット作としてだけではなく映像芸術としても評価され続ける名作映画の中には、それぞれに非常に印象的な「風景カット」が存在します。かつて(今もかもしれませんが)、街に立っていても、その風景のある瞬間を目にしてあれこれと想像を巡らせることの多かった自分は、風景そのものを使って物語の一部とするような何かが作りたかったのだと思います。

 

しかし実際のところ、演劇にも「風景」はある。

それに気づいたのは、その後に多くの観劇体験を経てからのことです。

 

ある種の優れた演劇は、観る側の脳内に、時には現実よりも鮮明な風景を呼び起こすことがあります。それは目で見る風景ではなく、脳の中に閃光のように焼き付けられる、架空の、しかしどこか記憶の一部だったかのような風景です。

 

「ひたむきな星屑」は、高速道路が通ったことで様変わりを遂げたある地方都市を舞台に、しがらみを抱えつつそこに帰ってきた女と、不安と孤独を抱えつつそこを出て行くことになる女、という二人が、今その街の基幹産業となった「高速道路沿いの大規模サービスエリア」という場所のアルバイト店員としてひと時を過ごし、すれ違う物語です。

 

左右に店舗の並ぶ一般道ではなく、高速道路沿いの街を舞台にした物語を「ロードサイドもの」と言ってしまっていいかはわかりませんが、本作には確かにロードサイドものと呼びたくなるような風合いに満ちていました。孤独、諦め、わずかな焦燥、男と女、夜のコンクリートを冷たく照らすライト。それらは極めて現代的(モダン)な問題提起で、演出のトーンも合間ってどこか'80~'90年代的な退廃のニュアンスも感じさせます。

 

SCOOLの空間には、天井部分に赤いイルミネーションライトが設置されていました。その赤い小さなランプたちの明滅が示すものは、夜の星空などではなくサービスエリアの店頭から見える渋滞のブレーキランプであることが終盤で暗示されます。綺麗ではあるかもしれないが、どこか息の苦しくなるような圧迫感のある赤い光。そして蛍光灯の白、誘導灯の赤と青。そこに重なる車の轟音。時に雨音。舞台上で実際に垂らされわずかに聞こえる水滴の音。

 

優れた演劇は、そうした空間美術、俳優の所作、音、など様々なパーツを駆使して、一度因数分解された「風景」を観客の脳内で視覚的に再構成してくれます。その再構成の際に必要となるコードが「戯曲」であり、戯曲の中の「言葉」なのかもしれません。

 

リアリティのある会話と各キャラクターの独白を無理なく行き来する本作の戯曲のリズムは、序盤こそ若干集中力を要求されたものの、中盤以降では無理なく意識下にその旋律を滑り込んできてくれました。時に天井に瞬く「ブレーキランプの星空」を見上げながら、私の中には冷たく孤独なロードサイドの景色が刷り込まれていきます。

 

脳内に組み上がった架空の景色は、現実よりも情報の濃淡が不均一なために、受け取ったその瞬間から儚く移ろうものとして脳裏に残り、目の前の現実としてよりもむしろ遠い記憶の中の体験に近い手触りを持ってその場を漂い続けます。優れた芸術に共通する要素を機能面から語るとすれば、人間の意識に裏口から直接接触するような、そうした影響の残し方がそれに当たるのかもしれません。

 

ロードサイド・夜・アスファルト・赤いライト。

そして断片的に脳内に浮かび上がる記憶のような「風景」。

それらはどこか、日本ではない、どこか他の国の風景のようでもありました。

 

その閉塞感は、最後静かで冷ややかな手触りのある「解放」に向かいます。

「雪の積もった日、閉鎖された高速道路を歩いて街を出ていく」というシークエンス。

現実と非現実の狭間のようなその情景は、実際に雪道を歩くときの身体の熱の記憶と合間って、ただ冷ややかな退廃を示しただけでは終われない'10年代の物語として終焉を迎えます。

 

抑制され、かつ雄弁な、そして間違いなく「今の物語」だったと思います。

自分の住む街、住む時間をこんな風に振り返ったらどんな風に見えるだろうかと、本作の余韻を楽しみながらしばし空想に耽っていたいと思います。

 

 

(物語の内容とは全く違うけど、心に映った風景はこんな感じで。)

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