その場所の居心地

備忘録と考えたこと

【コロナの時代】「正しい恐れ」と「正しい怒り」について

先日、赤十字からこの動画がリリースされた。
よくできているのでぜひ見てみてほしい。


【日本赤十字社】「ウイルスの次にやってくるもの」

軽やかな視聴感のある動画だけど、実はこれ、すごく難易度の高いメンタルコントロールのことが語られている。

 

「恐怖に振り回されず、正しく恐れる」

 

実際のところ、これをその通り行うことはとても難しい。8割方の人は、「やや恐れすぎている(心配性)」か「ほとんど恐れない(正常性バイアス)」の状態にいて、それでいて自分では「正しく恐れている」と自認している…というのが現状だと思う。そしていまのところ、そのどちらが答えかはだれにもわからない。

 

もちろんそのどちらだとしても、「恐怖に振り回されず、正しく恐れる」を意識しておくことは、針の振れ過ぎを抑える効果がある。この時期に赤十字が即時的なウィルス予防説明動画ではなく、その先の話に焦点を絞った映像を作ったことは卓見だと思う。

 

ただここで、この動画ではあえて省略されている重要なファクターについて、ひとつだけ言い足しておきたい。

 

怒りについてだ。

 

この動画の言い方に合わせれば、怒りについても同様の言い方ができるだろう。

 

「怒りに振り回されず、正しく怒る」

 

うん、確かにその通りだ。ただ忘れてはいけないのは、ここは日本社会。空気読みと自己責任論に喉まで漬かった相互監視のモッシュピットだということ。この場所ではもうずいぶん長い間、怒りという感情そのものが「和を乱す異物」として過度に敬遠され、人はやがて怒ること自体から離れてしまった。それがこの20年で起きたこと。これが危ない。

 

「恐れる」という感情がなくなったらめちゃくちゃやばいことは誰でもわかるのに、「怒り」の喪失にはなぜか無頓着な人が多い。それは「社会」とか「運命」とか「権力」という暴走トラックに素っ裸で立ち向かうことに似ている。衝突の瞬間が来ても、怒れないそのひとは声を発することもできない。

 

そうならないために理想的な態度といえば、「恐怖や怒りを主体的にコントロールし、恐れを観察と分析のため、怒りを行動と尊厳のために用いること」とでもなるだろう。でもこれ、完璧に遂行できた人は大抵歴史の教科書に載っている。誰もがそんな難行を目指す必要はないし、現実的じゃないと私は思う。

 

なので「怒り」ついてだけは、いっそ社会的なハードルをもっとずっと下げて、カジュアルにどんどん怒って、それを受容し合うことにはできないか。まず声を出してみる。その声を自分の耳で聞き、「自分がいかに社会的に黙らされていたか」ということを身体で実感してみたらいい。それは社会活動である以前に、もっと根源的な自己理解のための一歩だ。あなたが何をしていて何を目指す人でも、最終的に幸福から離れるつもりでなければ、あなたはもっと頻繁に声を発し、その声を聞いて、自分の輪郭を知っておいたほうがいい。

 

このアニメでは恐怖しか語られないが、恐怖と怒りはすぐ隣同士にあって不可分なものだ。どちらかが暴走しないように、どちらかが必要なこともある。アニメにあるような、「ただ機嫌よくニコニコしていること」だけが唯一の解決方法では断じてない。恐怖から距離を置き、機嫌よく過ごす日々で心身を充実させたら、そこに生まれたいくばくかの余剰を、あなたは適度な恐れと、そして「怒りの放射」に使ったほうがいい。そこにあなたが生まれ、その声の響くところに社会が始まる。それを最後に実感できたことがいつだっただか思い出してみてほしい。もしそんなことが一度もなかったのだとしたら…自分と社会のあり方について、なにか深刻な欠落がある可能性を疑ってみたほうがいい。

 

最後にもうひとつ。

「他人の怒り」が煙たくて仕方ない人へ

 

その煙たさの理由はほとんどの場合、あなたが「(いまのところは)怒らなくて済む余裕のある場所にいるから」というだけの話なので、あなたのやるべきことは他人の怒りにいちいち水を差さして回ることではなく、「そっかそっか、頑張れよ」と適度に距離を保ちながら(ソーシャルディスタンス)、それも一個人の在り方だと尊重する態度を見せることだ。そしていずれ自分がいよいよ怒らなくてはならなくなったときには、すぐにFF外から現れて「ちょw もちつけww」と唾を飛ばす5ch脳がいかに他者の尊厳を毀損する行為だったか、誰しもが否応なく気付かされるはずです。

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【2019参院選】「野党推しだけどれいわかその他かどうしよっかな〜」と迷ってる人は読んだ方がいいかもしれない記事

選挙の話。


「野党推しだけどれいわかその他かどうしよっかな〜」

と迷ってる人は読んだほうがいいかも、てことを書く。

あとサッカーの話とか出てきます(あんま知らないくせに)。

 

* * * * *

 

山本太郎、れいわ新選組旋風。

この盛り上がりの渦中にいる人たちの気持ちはめちゃわかる。

かっこいいもんね。

 

でも現実的に獲得可能な議席数に当てはめて考えると、その渦は思ってるほど大きくないことがわかる。参院選は3年ごとに半数の改選だから、既存政党は今回の改選候補以外に議員がいる。でもれいわは新党だから、当然ゼロだ。もし仮に奇跡が起きてれいわが全員当選しても10議席。その数、政党が議会に持つ影響力としてはとても小さい。

しかも、現実的にはめちゃくちゃうまく行ってもれいわは3議席とかに留まるとされる。れいわはほぼ全員比例区だし、こういう政党は都市部と地方で浸透度が愕然とするほど違うので、総数としてはそうなる。この新聞社とかの票読みはかなりの精度で、そこまで大きくは覆らない。3議席ってのも好意的な読みで、大方の予想は2議席。それについて不正とか陰謀を疑ってる人への話は今回は割愛。

 

今は与党が力を持ちまくって全能感でおかしくなってる時だから、ただちに少しでも非与党議席の数の力を蓄えて抑止力としたい。
だから数年前から戦略的投票(当落線上の野党候補に投票すること)が呼びかけられたりしてたんだけど、みんなそういうのは覚えてるだろうか。

 

というか、みんな選挙をシンプルな人気投票だと思ってて、そのゲームルールをあんまり知らないからこうなるんじゃないか?と選挙のたびに思う。
中選挙区小選挙区でどう違うか。比例区の特性は。複数区と一人区は。参院の場合は3年ごとに半数の改選、てことの意味とか。俺だって当然、自分であれこれ調べるまでは全くわかってなかった。

 

このことを、そんなに詳しくないサッカーで例えてみる。
ルールを知らない人がルールのあるものを見るとどう感じるか。以下の文章を「サッカーのルールを全く知らない人」だと思って読んでみてほしい。

 

「今はめちゃくちゃシュートを打たれてビハインドな状態だが、シュートは打たれるたびにキーパーにボールが渡ることはわかった。中盤でゴニョゴニョやってもなんかスッキリしないので、山本太郎というイキのいいキーパーは、もうポジションとかシステムとか無視で、自分でドリブルして敵陣に攻めれば早いんじゃないか?と考えた。実際彼はなかなかいい選手だし、何より敵陣に一人で切り込む姿はすごく勇ましく見えた。結果的に敵も一瞬は面食らったので、最後シュートで終えられた(入らなかったけど)。それから山本キーパーは『俺に球を集めろ!』と言い続けていて、一部のサポーターも彼に同調しはじめている。」

 

さあどうする?
というのが今の状況。

 

サッカーのルールを知らない人なら、「山本に蹴らせろ!あいつならやってくれる!」と言うかもしれない。ルールを知ってる人は、「いやあの、そんな特攻は何回もうまくいかないし、ちゃんと中盤でボール回して敵陣を崩してから戦略的に攻めようよ…」て言うだろう。しかし「知ってる人と知らない人」の溝はなかなか埋まらない。お互い知ってることの内容に差があることもあまり気づいてないっぽい。

 

さあどうする?

 

スポーツとして考えれば「いや、まずはルールとセオリー知ろうぜ」てなるのが普通だと思うけど、なぜか政治だとそうならない謎があって、名だたる知識人の皆さんがみんなれいわ推しな状況になってたりする(いやマジで気持ちはわかるんだけどね)。

 

ルールとセオリーのあるゲームの戦況をさ、「俺はロマン主義文学の文脈で読むぜ!!」みたいなことすんのも別に自由だけど、それ勝ち負けからは遠ざかるでしょ。でも知識人の皆さん、そういうスタンスでやってる人多い。うーん、なぜ?ていう。わざとやってるならいいけど、だいたいのことをとりあえずアートや表現の文脈で読み解きがちな人(俺とか)は気をつけたほうがいいかもしれない。あと、「誰が知ってて、誰が知らないで喋ってるか」 についての共通の知見も失われている気がする。たぶんこれはSNS、WEBメディアの弊害。ある話題について必要な知見を持ってる人にのみ語らせるフィルター機能が失われてしまった。新興メディアで普段文化記事とかビジネス記事書いてる人とかがこの古臭い(でも超大事な)ルールを知った上で誠司方面の記事を書いてるか、だいぶ疑問。

 

さて山本太郎候補自身、「時間がない!」て街宣で何度も言ってる。

でもさ、待ってよ。れいわに票を集めて何かを変えるやり方の方がむちゃくちゃ時間かかるけど???ていう話については答えてないぽい。

 

彼はいまや国会になくてはならない人材だし、れいわも政党として成長してほしいと思う。でもそこにボールを集めるべきなのは「今じゃない」。戦況的にも、ゲームのルールとセオリー的にも。

 

れいわ推しかどうかで迷ってる人は、「時間がない!」という煽りを聞くたびに、このことを思い出してほしいなと思う。戦略的投票っていうボールの集め方のセオリーがあるので、特に都市部の大きな選挙区に投票する人はググったりしてください。おわり。

 

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こうならないといいよね、という画像。

【マンガ】鳥山明『銀河パトロール ジャコ』について(2013.8.7)

鳥山明の事実上の最後の連載作品になるだろうと言われている

銀河パトロール ジャコ』について、

連載中に数話読んだ段階で書き散らかした文章があったので保存のために再アップします。

自分でも笑うほど異常な熱量で書かれているので、鳥山話が好きな人以外はスルーした方が身のためです。トリヤマスキーな方だけどうぞ。

 

 

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSNcioQmASz0n8RSacB6o-DiDUVwJB8G_zU5R4NqXQA1PTEVsy7

 

 (以下本文)

***********

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【演劇】赤堀雅秋『鳥の名前』- 演劇の"映像性"についての覚書

http://www.comrade.jpn.com/_src/1122/tori_om_ol.png

 

少し前に観た演劇について、ふと思いついたことがあり書いておく。

 

劇団ザ・シャンプーハット主宰であり、映画方面にも活躍の場を広げる赤堀氏の作・演出作品。不勉強ながら赤堀氏の作品を観たのは初めてだった。

 

端的に言って、面白かった。

描かれているのは日本の地方都市のグズグズしたダメ人間たちの様相、という感じで、それ自体はやや手垢のついたモチーフだ。ただ、自分がそうしたものをあまり好んで観てこなかったこともあってそれ自体が思ったより新鮮に感じられたし、出演した俳優たちの実力や持ち味と、物語のトーンをうまく融けこませることに成功していたと思う。観終わって、しっかりとエンターテインされたという実感があったし、かと言ってその言葉で文学性の低さを揶揄したくなったわけでもない。そこにはちゃんと鑑賞後に残る余韻、風合いがあった(と思う)。

 

それはいいとして、ここで書き留めて置きたいのは、その演出面の話だ。

 

本作の冒頭から15分ほどを観ていて強く感じたのは、「これは強く映像的な作品だな」ということだった。ある「カット」が、舞台のある場所で展開する。と、あるきっかけで場面が切り替わり、別の「カット」が、舞台の別の場所で始まる。と言った図式があり、この切り替わりがセリフのリズムや使用される音楽と強く連動している。非常に「編集的」であると感じたのだ。

 

また、舞台美術としても、空間を上下/左右に概ね4分割し、それぞれを別の場所として扱うようなタイプの演出が行われていた。つまり、観客席側から「投射された平面」のように空間が扱われている。すごく雑に言えば、4分割画面で構成された映像作品のような状態だ。もちろん演劇には演者の肉体が伴う分、舞台上の「ある一部分」に観客の目を釘付けにすることが演出的に可能で、実際に映像を4分割にした時ほど平面俯瞰的にはならないのだが、上述したその他の映像的テンポ感もあいまって、「あ、これこのまま映画にしてもいいやつだな」という印象を強く持った。

 

でもだとしたら、この作品が演劇である必要とはなんだったんだろう?

今回書いておきたかったのはその部分の話だ。

 

本作は非常に映像的だったし、それを本作の優れたポイントして論じることもできそうな気がする。実際に、ありありと想定された街、室内、あぜ道の様子が脳裏に浮かんだ。だが、それは逆に言えば、観客の側に「こういう話の時はこういう感じの映像だよね」という約束事が浸透しているから成立したことなのではないだろうか。

 

すでに書いたように、本作のモチーフは若干手垢のついたとも言えてしまう、非メジャー作品を見慣れた観客には好意的に受け取られやすい世界観のものだった。当然、それらの設定は観客の脳裏に一定の「像」を結びやすい。あえて嫌な言い方をすれば「安易」に。だとしたら、これが全く異なる文化圏で上演された場合はどうだっただろう。そういうことに耐えうる普遍性がこの作品にはあったのだろうか。

 

「閉鎖的な地方都市の空気というもの自体を観客の心理の中に空間として浮かび上がらせることに成功している」・・・というような言い方も、あるいはできるだろう。その観点から見れば本作は申し分なく、実際に成功している。それに加えて、「デビットリンチ的」とよく言われるような怪しさの演出もうまく決まっていた(でもやはりその"うまさ"も映像的な"うまさ"だ)。だが、その「閉鎖的な空間性」に、「そもそも演劇がもっている空間性」はなんらかの形で寄与していただろうか。スズナリの狭さが?劇場自体の古さが?いや、それだけでは何かの言い訳みたいに聞こえる。やはり、本作に必要な「空間性」を 観客に体感させるにあたって、演劇的にできたことはもっとあったんじゃないだろうか。そう思えてならない。

 

赤堀さんは多分、これからも映画方面で仕事をなされるだろうし、多くのよい結果を残されるだろう。でも、だとしても、演劇は別に映像のためのプロトタイプではない。やはり演劇には演劇としての強度を期待したい。そんなことは多くの観客にとってはどうでもいいことかもしれないけど、自分がわざわざシネコンよりも居心地がいいとはお世辞にも言えない芝居小屋に足繁く通う理由はそこにある。赤堀さんの作品にもそうした演劇性が強く反映されていたもの、今後上演されるものでそれが強く出ているものが、あるいはあるのかもしれない。だとしたら、その作品を観てからもう一度本作について考えてみたいと思う。

 

 

 

 

 

【音楽】女たちのエクソダス - 加藤ミリヤ feat.ECD『新約ディアロンリーガール』

サグめのラップばかり聞き慣れた耳には

加藤ミリヤって歌上手いんだな」という今更なことが

妙に新鮮に受け止められたりする。

 

youtu.be

 

後半の短いバースに聞こえるECDの声。

声は聞こえどその風景の中にECDは見えない。

癌で闘病中の日本語ラップの始祖の一人。

それが父娘ほども年の離れたフィメールシンガーの名前を二度コールして、

彼のバースが始まる。

 

MVを撮ったのは若干21歳の新鋭作家、Spikey John。

「超wavyでごめんね」のビデオで鮮烈にデビューした彼。

世代を超えたマイクリレーが、ECDからミリヤへ、

ミリヤからさらに下の世代へと受け継がれていく。

 

その背景は渋谷、渋谷、渋谷。

 

'90s、ECDが独立独歩で戦った街。

'00s、ミリヤが女たちの孤独を歌った街。

'10s、そしてその先へと、

ネクストカマーたちがその夜に新しい意味を上書きし続ける街。

 

原曲で参加していたK-DUB SHINEが本作のリリースに当たって

自分へ参加の打診がなかったことをtwitterで批判している。

原曲におけるK-DUBの功績を思えばそれも無理はないが、

本作の狙いはそうした「復刻」にあるわけではない。

 

今この時代にフィメールシンガーであるミリヤが

この曲を「新約」と称する意味。

そこに今の時代だからこその

「女たちのエグゾダス」の意味を込めていることは言うまでもない。 

 

冒頭、中盤、最後でラップされるたくさんの女性名。

架空の「わたしたちだったかもしれない誰か」を示すフロウの中で、

わずかに2名、明らかに特定の固有名がラップされる。

ECDの実娘二人の名前だ。

 

ただ渋谷の街中で女たちの受難を客観的にラップした当時と、

ECDが「番い、娘を持つ」という人生の物語に足を踏み入れ、

主体的に「女の人生」と関わった今では、

彼がこの曲の中でラップする意味は何重にもその重みを増し、更新されている。 

 

「女たちのエグゾダス」は、そうやって円環状に私たち男にも接続される。

そして奇しくも、女たちの「男親」になったECDに残された時間は短い。

ミリヤが本作をこのタイミングで「新約」と称しリリースした理由が

そのことと全く無関係とは思えない。

(でなければわざわざ実娘たちの名前をタグするような必要がどこにある?)

 

孤独しかない街にECDの声がこだまする。

マジな話早く立ち上がれとミリヤが言う。

そして今もその街に立ち尽くす女たちのシルエットがある。

その一歩めが踏み出されるのはいつになるだろう。

道行く先はどこへ続いていくのだろう。

 

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